小説

『甘橙』細田拓海(『檸檬』)

 男たちの阿保面を私は忘れもしない。「斎藤先輩」とは私のことである。彼女のその一言で、それまで繰り広げられていた「涼子取り合戦」は終結し、私のサークル内での地位は太閤秀吉も驚愕する早さで農民から天下人まで跳ね上がったのである。
 その日から私と涼子の交際が始まった。後日、何故私と交際することにしたのか涼子に尋ねると、「他の男たちと違って品があった」というもので、つまりは「がっついていなかったから」ということだった。最初から彼女を諦めていた私の態度が皮肉にも彼女には好印象に映ったようで、これは他の男たちには口が裂けても言えるはずがなかった。
やがて同棲を始めた我々は、所謂「ラブラブ」であった。卒業したら結婚するのだろうと周囲はいつの間にか決めつけ、私もそう思い込んでいた。
 だが、私が四年生になった頃から、我々の関係は少しずつ壊れ始めた。少なくとも私はそう思っている。舞台の道を諦め、就活に難航する私と、舞台の主演を勝ち取り、芸能プロダクションからも声をかけられるようになった涼子。少しずつ、少しずつ、私は彼女との距離を感じ始めていた。日々溜まっていく嫉妬と鬱憤を晴らすため、私はいつの間にか人道を踏み外していった。始まりはほんの出来心だったが、気づいた頃には私はすっかり中毒者となっていた。上手く隠しているつもりだったのだが、男の隠し事など、女にとっては尻の隠れていない鳥に等しい。
 そして昨晩、遂にその時が来た。私たちは些細なことから口論を始め、それが火種となり、彼女は私の浮気を責め立てた。正確には、私の風俗通いである。彼女は発狂しながら部屋にある品々を私に投げつけ、地獄谷温泉へ旅行した時の写真が収められた写真盾が私の額に直撃した。私は痛みと恐怖のあまり部屋を飛び出し、「この短足野郎!」と叫ぶ彼女の声を背に夜の街を走り回ったのである。
 私は汗だくになりながら、サークルの同期である高見沢の家のドアを叩いた。彼はサークルでも特に交友のある友人であり、嘗て涼子に二人芝居を願い出た者の一人だった。私が涼子と付き合ってからはしばらく冷戦状態が続いたが、なんやかんやの後に和解し、今では私の良き理解者である。
 高見沢は私の姿を見るなりぎょっとし、「おい、警察呼ぶか!?」と叫んだ。私は彼の発言が理解できず額の汗を拭ったが、手についた真っ赤な血を見た途端、私はその場に倒れて気絶してしまった。
 高見沢は私を手厚く手当してくれた。私は涼子との経緯を話し、私が涼子の部屋を飛び出した所まで話し終わると彼は、「そうか、そうか。よしっ!お前を慰めの宴に連れ出す!」と言い出し、包帯グルグル巻きの私を夜の街へ連れ出した。
 その後、何軒の飲み屋をはしごしたことだろう。慰めの宴はそれから丸一日続いた。後々聞いた話では、私はどの店でも酒を浴びるように(本当に頭から浴びながら)飲んでいたらしい。最後の店では、客に絡むわ、踊り出すわ、泣き出すわ、仕舞いにはビールかけを始めたために店員が激怒し、我々は店を追い出されたそうだ。

 そして現在、私は思い脳みそを抱え、フラフラと街を彷徨っていた。Tシャツは汗で濡れていて気持ちが悪い。それに例の塊である。私の機嫌は目に見えて悪くなっているようであり、私の横を通り過ぎようとした初老の女性が、私の顔を見るなり「うわっ」と言って早足で去って行った。
「あのクソババア・・・」

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