小説

『未来を映す鏡』三坂輝(『よくばりな犬』)

 昨日はよかった。本業の準備のために、フォトグラファーの名刺を引っ張り出していた。時間がかかってしまい、あまり眠れなかったけれど、何もせずに眠れないより、やることがあったほうがいい。
 あの子の笑顔が浮かぶ。いらいらしてくる。
 撮影相手を笑顔にさせるのはわたしの仕事だ。笑顔にさせるのって楽じゃない。わたしの本業はフォトグラファー。だから、笑顔にさせることを知っている。わたしは、もっとゆっくり待って、自然に湧き出る笑顔が撮りたかった。それを、あの子がなかば無理矢理に社長さんを笑わせた。
 あんな笑顔じゃ、良い写真にならない。クオリティを追求できないままに終わってしまった。コウヘイさん、満足しなかったんじゃないかな。あの子さえ、しゃしゃり出なければ、リピート依頼、間違いなしの笑顔を撮れたはず。いや、コウヘイさんが満足しなくたって、社長さんさえ満足させられていたら、直接にだって仕事の依頼が来たのに。
 依頼が増えてくれば、本業だけに集中できる。アルバイトなんてしなくても済む。カギ閉めも店長のことも忘れられる。本業のかたわらにカレー屋のアルバイトだなんて、人には言えない。
 でも、カレーにくわしいフォトグラファーというのも個性だ、きっと。ジャガイモ切って、シャッターを切る。鍋の湯気を立てて、照明を立てる。カレールーを入れる魔法のランプみたいなあの器の名前知ってる? グレイビーボートっていうの。
 レアな人財。クリエイティブなわたし。だから、たぶん大丈夫。
 けれど、いらいらする。コウヘイさん、次に連絡くれるのはいつだろう。あんなんじゃ、次につながらない。これじゃ、わたしのカレンダーは本業で埋まらない。いつまでもアルバイトのシフト提出に迷う生活が続く。安心感がほしい。
 2時15分になった。

 わたしは鏡の前に向かった。うちには、ちょっと大きな姿見がある。
 未来が見えるなら見てみたい。深夜2時22分に鏡をのぞくと、未来の自分の姿が見えるという都市伝説。よくあるのは、その都市伝説を真に受けて鏡をのぞいたのに何も映らず、未来なんか見えないじゃんと小バカにするというオチ。
 もし、鏡に何も映らなかったら怖いが、それもあり得るかもしれない。こんなにあやふやなわたしなのだ。未来が映らないかもしれない。あの子に邪魔されて本業が続かなくなったせいで。それとも、カレー屋の店長の横で子どもを抱いている未来とかが見えるかも。それもいいや。
 ぺしゃんと床に座る。鏡の中の自分を見る。
 なんとなく、あの子の顔がそこにある気がした。
 顔はたくさんのパーツで成り立っている。わたしは鏡の向こうの、あの子の顔を分析した。
 実は、あの子は目の奥が笑っていなかった。だから、こんなに嫌な気分になるんだ。だから社長さんだって、最高の笑顔をしてくれなかった。

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