小説

『彼女が求めた赤』斉藤高谷(『地獄変』)

 こうした効果は、ヨシノが題材を目の前にした時のみ成立する。つまり、先に挙げたような〈粉々に砕けた百葉箱〉とか〈死んだ鶏〉などを描く場合は、彼女の前に実物を用意する必要があるのだ。
 曲がりなりにも生徒であり、一部員でもある彼女の要望を無視し続けるのは教育者の道理に反していた。本当に百葉箱を粉砕するわけにはいかないので、七十分の一スケールの模型(ネットの世界には何でも売っているのだ)を彼女の前で叩き壊し、鶏に関しては丸焼き用の生肉でどうにか手を打ってもらった。男の裸体については俺が頑なに拒否していると、やがて諦めたようだった。
「どうしても脱げないというのなら、代わりに真っ赤な薔薇を用意してください」
「真っ赤な薔薇?」意味がわからぬというのではなく、拍子抜けして問い返した。「そんなものならお安い御用だ」
 ところが、この御用が全くお安くなどなく、翌日、スーパーで適当に見繕った薔薇を持って行くと、彼女は一瞥するなり花を放り捨てた。
「何をする」
「全然ダメですね。先生の眼は腐ってるんでしょうか」
 こんな風にコケにされては、大人として黙っているわけにはいかない。俺は隣町のショッピングモールへわざわざ出向き、生花店で一番鮮やかな薔薇を買って次の日に持って行った。すると彼女は、それも一瞬見ただけで、ゴミ箱へ放り込んだ。
「おい」
「先生は薔薇を見たことがないのですか? そもそも薔薇を知っていますか?」
 ゴミ箱に捨てた薔薇にやるような眼で見られ、こちらも意地になった。俺は方々の店を周り、ネットの波に乗り、最終的には車を一日飛ばして農園にまで買い付けに行った。
「ダメですね」
「駄薔薇です」
「先生……(以下略)」
 結果は散々なものだった。彼女にもてあそばれている気がしてきて、俺はついに訊ねた。
「せめて何が違うのか教えてくれないか」
 すると彼女は、パレットナイフを眺め回しながら言った。
「色です。先生が持ってくる薔薇は、わたしが描きたい赤とはほど遠いんです」

 ヨシノが前々から薔薇の絵を描こうとしていたのは知っていた。何冊ものスケッチブックと、何枚ものカンバスをその下書きに費やしているのを見ていたからだ。
 構図は既に決まっているようで、デッサンだけでも作品として立派に成立していた。だが、彼女としては色が付いて初めて一つの作品が完成するらしく、デッサンや下書きはあくまで〈途中経過〉でしかないようだった。

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