小説

『彼女が求めた赤』斉藤高谷(『地獄変』)

 パレットでは、黒くくすんだ赤が作られていた。

 俺は何度もテレビ局に電話を掛けたが、担当者は常に不在だった。結局、放送取りやめの願いを伝えることさえできぬまま、映像は全国に流れた。どれだけの人間が真剣に観たかは知らないが、それなりの人数の眼には止まったようで、彼女の名はTwitterのトレンドにしばらくのあいだ載っていた。芸術性云々とは関係のない、彼女の〈結構かわいい〉外見がそうさせたらしかった。
 世間がそういう案配なら、学校の中でも話題にならないわけがなかった。〈天才女子高生芸術家〉という世間で出回っている軽薄な文言がそのまま取り入れられ、ヨシノのことを話す度、誰もが彼女を指して〈天才〉と呼んだ。そこに何らかの敬意があるわけではなく、小学生のクラスで物知りな子供が〈ハカセ〉とあだ名を付けられるようなものだった。時には蔑称として使われていた。
 誰もがヨシノの次の作品を待ちわびていた。それに反して、彼女は絵具を混ぜている時間が長くなった。そしてついに、一週間の部活動中、ずっとパレットの上で絵具を捏ねるような状態となった。
「もしかして、俺がまともな色の薔薇を用意しないから絵が描けないのか?」
「ご心配なく。もう先生には期待していません」
 そう言われて腹も立たなければ悲しくもなかった。さもありなん。俺が彼女に対しできることなど、既に何もないとわかっていた。
「周りの雑音なんか気にする必要ないぞ。お前は今まで通り、自分のやりたいようにやればいい。こんなこと、俺が言うまでもないかもしれないが」
 すると、パレットの上で回っていた筆が止まった。
「本当ですか?」彼女は言った。「本当に、やりたいようにやってもいいんですか?」
 真っ黒な、深淵のような瞳がこちらを見上げていた。俺は心の奥底まで覗き込まれるような居心地の悪さを感じながら、「ああ」と呻くように言って頷いた。何か、踏んではいけない場所を踏んでしまったような感覚があった。
「血」
「血?」
「血が見たいです」ヨシノは言った。「わたしが出したい赤は、生きた人間から流れ出た血の色なんです」
「それはお前……」言いかけて、何も言葉を用意していない自分に気がついた。
 机の上で、パレットナイフが白く光っていた。そこへ、獲物を狩る白蛇のように、彼女の手が伸びた。
 俺は息を呑んだ。喉の鳴る音が大きく響いた――ような気がした。
 ハッとしてヨシノを見ると、彼女の顔には笑みが浮かび始めた。一瞬、泣き顔のようにも見えた笑みだった。
 その笑みも、水面に生じた波紋が広がっていくように、やがて消えた。
「冗談です」
 彼女は再び、絵具を混ぜ始めた。

 その翌日から、ヨシノはカンバスに薔薇の下書きを描き始めた。作業は速やかに次の工程へと移り、彼女は下書きの上に絵具を乗せ始めた。
 これまでの停滞が嘘だったように、筆は進んだ。
 そうして三日と掛からず完成した〈薔薇〉は、またも世間を賑々しく湧かせた。プロの芸術家がその独創性を認め、海外のキュレーターから全文英語のメールが届いたほどだった。俺はそのメールを、訳すことなく削除した。
〈薔薇〉が完成した翌日、ヨシノは学校を辞めた。「旅に出る」という書き置きを残したきりで、両親も彼女の所在を知らないようだった。まあ、彼女らしいといえば彼女らしい。
 最近、俺は一通の封書を受け取った。
 差出人は不明。角のよれた封筒には、どこか外国の消印が捺されていた。
 中には、薔薇の絵が一枚入っていた。水彩絵の具で着色されたそれは、柔らかな日差しを浴びているような淡い色だった。あの作品よりいいものだと、俺には思えた。

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