小説

『井の中の蛙は大海の夢を見るか?』室市雅則(『井の中の蛙大海を知らず』)

 誰かいるのだろうか。
 今、自分が歩いているところも十分広い場所だけれど、とてつもなく広いって、どれくらいなのだろう。
 塩辛いって何だろう。
 そんなことを考えながら、足を進めた。
 ふと空を見上げた。
 井戸の丸に縁取られていない夜空だった。そして、夜から朝になるちょっと手前の最も暗くて、濃紺の色をしていた。

 初めて聞く音が聞こえた。
 心地よく同じリズムで繰り返される音だ。
 聞いたことのある羽音も聞こえた。
 見たことのない青いトンボだったので、蛙は思わず声をかけた。
「あなた、トンボ?」
「そうですけど。シオカラトンボですけど。蛙さんと同じくらいメジャな生き物ですけど」
「そうですか。海は近いですか?」
「もうそこですけど。波の音が聞こえるけど」
「波?」
「この音ですけど」
 シオカラトンボ が羽を休めたので、波の音だけが聞こえた。
「これが波の音ですけど」
「私、分かった。海、行く」
シオカラトンボが笑った。
「珍しいんですけど」
「そう。それじゃ」
 蛙はシオカラトンボと別れ、波の音のする方へ向かった。

 徐々に太陽が昇り始め、空の端が明るくなって来た。
 ついに、蛙は海に辿り着いた。
 井戸と比べものにならないほど広く、夢にまで見てしまうほどの量の水があった。
「これ、海?」
 蛙は大きく息を吸った。
「これ、海の匂い?」
 誰も近くにいないので、誰も答えてくれなかった。でも、ここが海のような気がした。生きていく上で、大きな一歩を踏み込めたように思えた。

 蛙は砂浜に降り、波打ち際まで寄った。
 死んだ魚が、波に引きずられるように押し引きされていた。
「金魚? 違う?」

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