小説

『井の中の蛙は大海の夢を見るか?』室市雅則(『井の中の蛙大海を知らず』)

 蛙は木桶から勢いよく飛び出し、草むらへと必死で逃げた。

 夢中で逃げ、振り返るとあの動物の姿はなかった。
 蛙は安堵し、周囲を見渡した。
 自分の背丈よりも高い草に囲まれていた。そして、足は汚れていた。
 蛙にとっては初めて見る光景であったし、水以外のものを踏む初めての感触であった。井戸の中にいては体感しなかったであろうそれが嬉しかった。

 正しい方向か分からないけれど、とにかく歩みを進めた。
 すでに真っ暗になってしまっている。しかし、外の世界に出た興奮からか不思議と疲れは感じなかった。
 すると、地面が擦れるような音が聞こえ、蛙の体が何かで拘束された。そして、頭の上から声がした。
「お前、美味そうだな」
 蛙は見上げた。
 それは鋭い目付きで睨んでいる蛇であったが、蛙は蛇を知らない。
「誰ですか? 私、食べますか?」
「俺のことを知らないのか?」
 蛙は頷いた。
 蛇は笑い、蛙を締め付けるのを止めた。
「お前、面白いやつだな。俺は蛇だよ。蛙なんて蛇の格好の餌だぞ。蛇に睨まれた蛙なんて言葉もあるんだぞ」
「そうですか。私、初めて井戸から出てきた。何にも知らない」
「お前みたいな蛙、初めてだ。どこに向かってたんだよ?」
「海。海、こっちで行けます?」
 蛙は前方を水かきの先についた小さな指で示した。
「ああ。海はそっちだ。早く行けよ。また俺がお前を食おうと思う前によ」
「ありがとう」
 蛙は再び歩みを進めた。

 もうとっくに夜中は過ぎた。
 でも歩き続けた。
 どうして自分は海に惹かれるのだろう。
 海はどんなところなのだろう。
 何があるんだろう。

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