「海のすぐ近くです」
「うみ?」
蛙はここで初めて『海』という言葉を知った。
「蛙さんは、海をご存知ありませんか?」
「はい、私、知りません。それ、どのようなものですか?」
「ここのように水があります」
「では、同じですか?」
「全く違います。まず水が塩辛いのです。そして何より広い。とてつもなく広い。ここは端から端まで見ることができますが、海は果てしなく続いていて、その端っこを見た者はいないのです」
蛙は全くピンと来なかった。だが、天道虫が言う、とてつもなく広いものというのを見たいと思った。この井戸の中で自分の全ては事足りている。だが、このままで良いのだろうかと疑問もある。井戸の世界の外を知らずに、一度きりの生を終えて良いのだろうか
「蛙さん、もしよろしければ私が海まで案内をします。ですので、食べないでもらえませんか?」
悪くない提案であった。海がどこにあるかは知らなかったし、外に出れば何か餌はあるだろう。一石二鳥である。
天道虫へ、『よろしくお願いします』と伝えようと、口を開けた瞬間、勝手に舌が伸び、あっという間に天道虫を絡めとって、飲み込んでしまった。無自覚の本能が勝った。
美味しかった。
海に行きたいと思った。
その為には、ここから出なくてはいけない。しかし、この壁は登るのは難しい。ならばと考えると、降ってくる木桶に乗るしかない。危険な賭けであることは承知しているけれど、これしかないだろうし、海が気になる。
普段であれば、いつやって来るか分からない木桶は恐怖の対象でしかなかったが、いざ覚悟を決めて待っていると、なかなかやって来ないものだった。
すっかり日が暮れてしまったようだ。
今日はないかなと思っていると、木桶が降って来た。水を掬おうと木桶は上下左右に動いている。木桶が上昇し始めた瞬間、ままよと蛙は飛び乗った。
ぐんぐんと木桶は昇り、井戸から出ると視界が一気に開けた。木桶を引っ張っていたのは見たことのない動物だった。それが兄弟を拐った動物。自分にとっても危険なはずだ。