小説

『井の中の蛙は大海の夢を見るか?』室市雅則(『井の中の蛙大海を知らず』)

 蛙は大海を知らなかった。
 大海どころか海を知らなかった。
 なぜなら、蛙は井戸の中で生まれ育ち、一歩もそこを出たことがなかったからだ。しかし、知らないからと言って不便があることもなかった。何故なら、蛙の周りには誰もおらず、井戸の中で、誰かと話すこともないのだ。他人との交流は、餌にしている蚊くらいである。しかも、井戸の水へと産卵のために降りて来たのを、パクリとやるだけだから会話をすることもなかった。蛙にとって海は生きる上で関係も接点もない存在であった。
 薄暗い井戸の中で、一人で過ごす暮らしをしてずいぶんと経つ。親の顔は知らないが、兄弟は数えきれないくらいいた。だが、上空から日に数度降ってくる木桶に水と一緒に掻っ攫われてしまった。とうとう残ったのは自分だけとなった。臆病だから、ほとんど縁にいたので助かった。今でも木桶は降ってくる。薄暗く、じとりとした湿度の快適な環境の中で、それが唯一の悩みの種であった。

 水面に何かが落ちた音で目を覚ました。
 木桶かと思って一瞬、身を強張らせたが違った。
 赤が妙に黒い天道虫であった。以前に天道虫を食べたことがあったので、久しぶりに腹に溜まる餌だと思った。
 早速、水の上に浮かんでいる天道虫の方へと体を向け、狙いを定め、口を開けようとした時、先に天道虫が慌てて口を開いた。
「ちょっと待ってください」
 空腹に従えば、天道虫の声を無視し、そのままパクリと食えば良いのだが、久しぶりに他人の声を聞いたことで、誰かと交流をしたい欲求が頭をもたげた。しかし、何と返事をすれば良いか分からず、一呼吸分の熟考し、初対面の人物には挨拶が重要であることを思い出した。
「こんにちは」
「あ、どうも、こんにちは」
 天道虫は思わず、挨拶し返した。
「待ってくれるのですね」
「はい。しかし、お腹空いている。だから、ちょっとだけ」
 蛙は発した言葉が片言になっていることに気が付いた。久しぶりに声を出すので、口の筋肉がついていっていないようだ。
「私を待っている家族がいます。ですので、私を食べないで欲しいのです」
「どこで、家族、待ちますか?」

1 2 3 4 5