小説

『恋するオハナ』はやくもよいち(『とりかへばや物語』)

目の前の光景がぐるぐると回り始め、立っていられなくなった。
世界が暗闇に覆われる。
意識が遠くなっていった。

目が覚めると、俺は両手を広げた姿勢でうつ伏せになっていた。
ジョギング中にめまいを起こして倒れたらしい。
変な夢を見た気がする。

身体の下は土ではなく、ごつごつとした岩だった。
表面には凹凸があるものの、磨かれたように滑らかで、つややかな黒色をしている。
規則性のある亀裂の部分には苔がびっしりと茂っていて、ほのかに草のにおいがする。
体を起こして周囲を見回す。
驚いたことに、俺の乗った岩は人の背丈より高い草むらの中を移動していた。
「この岩、動いているのか」

意識がはっきりしてくるにつれ、なぜ動くのか、徐々に答えが分かってきた。
岩だと思っていたのが実は、乗用車ほどもある亀だからだ。

俺が目を覚ましたことに気がついたのだろう。
亀は、「目が覚めたか」と声をかけてきた。
喋ることにも驚いたが、それよりも黒曜石のような目に映る、自分の姿に衝撃を受けた。
俺は先ほど見かけた天狗になっていた。
神通力だか念力だか知らないが、身体を入れ替えられてしまったらしい。
「天狗はどこだ? どこへ向かっている」

俺の問いに答え、亀は噛みつきそうな勢いで口を開いた。
「オハナとかいう、人間の娘の家だ。わしは天狗さまの後を追っておる」

俺は亀から飛び降りようとした。
急いで彼女の家へ行かなければ、あの妖怪が何をするつもりか心配だ。
ところが上体を起こしただけで、全身に痛みが走った。
年老いた体は腰痛と膝のリュウマチのせいで、立ち上がることさえ辛いのだ。
では空を飛んで行こうと考えたが、関節が軋んで、羽を広げることも出来なかった。
「体がだるいし、そこら中が痛い。あの年寄り妖怪め」

苦痛を訴えると、俺を乗せた亀は溜息をついた。
「いたわしや、天狗さま」
「体が痛むのは同情するけど。妖怪ごときに、たいそうな呼び方だな」
「口を慎め。妖怪などではない、『導きの神』だ。それどころか75年前、このあたり一帯を大禍から守って下さった、お前にとっても大恩あるお方なのだぞ」

太平洋戦争末期の空襲のことだろうかと、ぼんやりとした頭で俺は考えた。

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