「けっこう重装備だけど、これからどこ行くの」
「北アルプス。針(はり)ノ(の)木(き)雪渓から入って、奥飛騨温泉までずっと縦走」
大学生の俺は、無職の俺を正視したくないのか、景色に集中しているようだ。横顔をじっと観察していたら、その瞳に、さっと青空の色が差した。
突然強烈な日差しを感じて窓の外に目を向けると、列車は荒涼としたハイマツのブッシュの中をゆっくり進んでいた。アズライトの空の下、幾重もの山脈が天を摩している。遠くの山小屋のソーラーパネルが日を浴びて、金星の輝きを放つ。峡の底に張り付いている水面は、黒部川だろうか。
刻々と変わる山景をおもしろがっているうちに、いつしか見覚えのある山肌が現れた。ぼろぼろに風化した花崗岩の崖は、遠目には雪と見分けがつかない。その800メートルの大岩壁の上、吹けば崩れそうな痩せ尾根をゆく、頼りない登山道。
不動(ふどう)岳(だけ)だ。
つい窓に張り付くようにして見つめてしまう。不動岳、俺が死にかけた山。
「――なあ、『アルプス登攀(とうはん)記』のさ」
大学生の俺がぽつりと声を発した。峰から目を離さずに相槌をうつ。
「うん」「滑落について書いてあったこと、覚えてる?」
「ウィンパーがマッターホルンからころげ落ちて、大けがした話でしょ。覚えてるよ」
「そうそれ。ウィンパーがさ、『滑落してる間、強い衝撃はあったが痛みを感じる時間はなかった。滑落死は案外痛くないんじゃないか』みたいなことを書いてて」「うん」
「あれさ、本当だったよ」
俺は声の方に振り返った。大学生の俺が失業者の俺を、遠くの山頂でも見るかのように眺めていた。
不動岳周辺は、滑落事故の多いルートだ。風化した花崗岩は踏ん張りのきかない砂礫となり、一度転んだが最後、谷底まで止まらない。
かつて、俺はその砂の上で足を滑らせたのだった。体が傾いた瞬間、全身の毛穴が開いた。「あ」と思った。あのまま死んだら、俺の最後の思い出は、「あ」だったのだが、運よく岳(たけ)樺(かんば)の幹をつかまえて命を拾った。本能で伸ばした手が木の肌に触れるまで、1秒に満たないはずのわずかな時間が、十倍、二十倍と引き延ばされ、すべての音が消え去った世界の真ん中で、砂の一粒一粒のきらめきをも明瞭に知覚できた。後にも先にもあんなに頭が冴えたことはない。ともかく、俺は生還したのだ。
「確かに滑りはしたけど、助かったでしょ」
「お前はな。俺はそうじゃない」
「どういうこと?」