小説

『境界線に乗って』眞山マサハル(『銀河鉄道の夜』)

 先月、仕事を失くした。仕事というか、会社そのものがなくなってしまった。
 酔い醒ましのコーヒーで時間をつぶしながら、店の壁を徹(とお)して聞こえてくる祭囃子を聴きながら、このひと月を振り返った。
「今月の給料は、払えない」
 断固として宣言した社長の、血走り、見開かれた目が忘れられない。まさに終わらんとしている人間は、ああいう目をするものなのだろうか。いや、違うな。100%違う、あんな牛みたいな目は。たぶん社長にはまだ闘う気力が残っているのだろう。だとしたら大した男だ。俺はすっかり失業者が板についてしまったのに。
 カフェの外へ出ると、大門町(だいもんちょう)の山車が銀座通りをのろのろと上ってきて、大宮駅の東口を通り過ぎようとしているところだった。日盛の熱と笛太鼓の音圧が、酒に酔った頭にガンガン響く。
 銀行の壁にもたれて、山車が行ってしまうまで見ていると、なんだか無性に眠くなってきた。思いのほか酒がまわっているらしい。平日昼間から堂々と飲める日など、祭をおいてそうあったものではない。ひさびさに深酒をしていた。
 うつらうつらしながらも、なんとか改札口をくぐった。いつものように11番線ホームの階段を降りると、ちょうどオレンジと緑に塗り分けられた列車が入線するところだった。ブレーキの金切り声が止み、ぷしゅうとドアが開いた。
 車内は貸切状態だ。ボックス席に陣取って、なにげなく車内を見回し、おや、と思った。中吊り広告はおろか、路線図も行き先表示もない。それに、ひどく古い車両のようだ。これ、ディーゼル車じゃないか? この路線に走っていただろうか、そんなもの。窓の外を見やれば、ホームの屋根から「12 境界線 過去方面」と書かれた四角い看板が吊り下がっていた。
 この駅には、12番線はない。ホームだけ残っていて電車は通っていない、いわば幽霊ホームだ。しまった、ホームを間違えたと気づいたときには、ドアは閉じていた。発動機を轟かせ、列車は動き出した。
 境界線なんて路線は知らないし、過去方面ってなんだ。この列車はどこに行くんだろう。疑問はいろいろあったが、酔っ払いが考えてわかる問題でもなさそうだった。とりあえず次に停まったら降りればいいや、時間はつぶすほどあるんだしとぼんやり考え、はやくも舟を漕ぎはじめたところ、がらりと戸の開く音がした。隣の車両から、ぼさぼさソバージュの男子大学生が入ってきた。ドイターの85リットルのザックを背負って、若干よれたスポーツウェアを着ている。あれもうっかり野郎に違いない。密かに親近感を抱いていると、その男はどういう訳か、俺だけしかいない車両で、わざわざ俺の向かいの席に来て、ザックをどかりと下ろした。なんだこいつ。俺は男をにらんだ。

 その男は俺だった。より正確には、大学2年生の俺だった。
「うぃっす」向かいに座った俺が言った。「まっ昼間からべろっべろじゃん。仕事しなよ」
「うるせえな。そういうお前はどうなんだ」
「俺は学生だからいいでしょ。こうやって講義さぼって登山だってできる」大学生の俺は、ザックの頭をぺちぺち叩いた。

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