小説

『境界線に乗って』眞山マサハル(『銀河鉄道の夜』)

「お前はあの木をつかんだんだろ? 俺は、だめだった。コンマ1秒の勝負っていうかさ。助かったお前がいる世界と、死んだ俺がいる世界がある」
 そう言って、大学生の俺はむっつり黙り込んだ。列車は不動岳を過ぎると緩やかに速度を落とし、白(しら)檜(べ)に囲まれた狭い空き地に停まった。どうやら山小屋のテント場らしい。大学生の俺がやおら立ち上がり、ザックの紐を締めた。
「じゃ、俺はここまでだ」
 ぷしゅう。列車のドアが開き、一拍遅れて、深山の清澄な空気が流れてきた。
 大学生の俺は、なにげない調子でドアまで歩き、熊鈴の留め金をはずしながら、「お前はうまくやれよ」とだけ言って下車した。
 ――ちりん。熊鈴が別れを告げた。ドアは無機質に閉まり、列車は走り出した。

***

 がたん、ごとん。列車は苔むした白(しら)檜(べ)の原生林に入り、車内が翳(かげ)った。
 俺は、右手をひろげてじっと見つめていた。
 この手のひらが、あの冷やりとする樹皮を握りこんだとき、「助かった」と芯から確信したあのとき、遅れていた時間を取り戻すように、心臓がばくばくと跳ねたのを思い返していた。俺にとっては、それが生きるということの具体的な形だった。

「なに見てるの」
 それは少女の声だった。はっとして頭を上げると、隣の席に、パジャマを着てニット帽をかぶった、ボーンチャイナめいた白さの女の子が座っていた。俺が驚いていると、女の子はくすくす笑ってからもう一度質問した。
「ね、なに見てるの」
「手相」
 そう答えたのは、彼女のことを憶えているからだ。

 小学5年生のゴールデンウィークだったと思う。自転車で転んで足の骨を折り、2週間ほど入院したことがあった。最初の晩、暇つぶしにテレビをつけていると、隣のブースからカーテン越しに苦情を入れてきた女の子がいた。
「ねえ、テレビ消して。まぶしくて吐き気がするの」
 光で吐き気? 疑問に思いながらテレビを消したが、嘘ではなかった。巡回してきた医者とその子の母親の会話から、彼女が抗がん剤の副作用で苦しんでいることを知った。
「先生、ほかの薬はないんですか、ずっと吐いてばかりで、この子が可哀想で」
「弱い薬に戻すこともできます。できますが、お勧めはしませんよ」
「でもこれじゃあ……。ミサキ、こんなお薬やめましょう、無理することないの。ね?」
「……ううん、大丈夫」
 一部始終を耳にしながら、俺は病室の窓の外を眺めていた。からりとした五月の空を、ときおり燕がよぎった。
 あの子がベッドの上でもがいている間に、外では生き物たちの季節がはじまろうとしているのだ。まったく気が遠くなるほど美しい青空だった。ガラス一枚、たった一枚のガラスが生と死の世界をへだてているんだと思った。
 あるとき彼女は言った。
「前にいた病院にね、同じ病気の友達がいたんだけど、突然いなくなっちゃって。ほんとにいきなり。あの子はどうしたのって、訊けなかったんだよね。たぶんそういうのって、訊いたらだめなやつだから」

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