小説

『例えば1枚の絵のように』菊武加庫(『雁』)

 怜奈はほかの子が読むような子ども向けの本は、もうとうに卒業しているとでも言うように、小さな字の少し古い本をいつも手に取っていたし、私もそういった子どもだった。
 あるとき探している本が見つからないでいると、「その本なら持ってるよ」と、自宅に誘ってくれて、以来お互いの家を行き来するようになった。
 一見似たような2人だったが、何かとうじうじして、その結果黙ってしまう私と違い、怜奈は余計なことを言わないだけで、明確に主張ができる性格だった。

 中学に入って梅雨も明けようかというある日、下校時間を狙いすましたかのような集中豪雨が襲った。
 あっという間に闇が下りてきたかと思うと、バケツをひっくり返したような雨が、繰り返す雷鳴とともに地面に叩きつけられた。
 大雨の中飛び出して帰るのはごく少人数で、ほとんどの生徒が小降りになるのを待った。
 幸いなことに20分もすると徐々に雨足は弱まり、待機していた生徒たちが散り散りに昇降口を後にした。怜奈と私は人波が途切れるのを、あと少しの間じっと待つことにした。
 ふと見ると、誰もいなくなった出口の前に、あのハスミくんが立っている。空を見上げる鳶色の目に、困惑と迷いの色が浮かんでいる。手に傘がない。
「これ、使っていいよ」
 怜奈が咄嗟に紺のタータンチェックの傘を差し出した。
「え……?」
 ハスミくんはびっくりして怜奈の目を見た。
「もう一本折りたたみ持ってるから。これ学校に忘れていて、だから二本あるの」
 それを聞いてハスミくんは初めて笑顔を見せた。
「ありがとう、助かる。絶対返すよ……何組?」
「3組。いつでもいいよ」
 その声を聞きながら、ハスミくんは傘につけられたタグに目を落とした。怜奈の名前を確認したのか、それ以上何も聞かずに、「ありがとう」と、もう1度言って傘を広げた。怜奈と2人、その足早に遠ざかる背中を見ていた。

 後日、傘は怜奈の手元に戻り、ハスミくんと私たちは親しいとまでは言えなくても、目礼をするくらいの間柄にはなった。
 だけどふと気がつくと、遠くから怜奈だけに向けられる、ハスミくんの視線を感じることがだんだん増えていったのだ。怜奈の側では、その視線の意味を汲み取る様子がないのが不思議なほどだったが、案外そんなものかもしれない。
 理科室に向かう渡り廊下や、階段の踊り場、落ち葉を掃く掃除の時間、10回に1回くらいは目が合うことがあり、怜奈が笑顔で応えた。それは傘を貸して言葉を交わしたことがある相手への普通の親しみだった。
 比べると、ハスミくんの目は、特別な気持ちを明白に物語っていたが、私はあえてそれを、彼女に教えようとはしなかった。

 ハスミくんの両親は離婚後、それぞれ違う相手と生活をしていた。

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