小説

『さらば行け、マツコ!』ノリ・ケンゾウ(『めくら草紙』太宰治)

 そもそもの話であるが、これが例えば小説がすべて書き終えられてから、『さらば行け、マツコ!』というタイトルが付与されたのであれば、かの矛盾は生まれなかったという点には言及しておくべきだ。つまらない茶番に付き合わされている我々には、文句を言う権利がある。せめてあらかじめ決められたタイトルで小説を書くのであれば、素知らぬ顔をして、〈マツコ〉を登場させ、〈マツコ〉に決定的な声をかける人物、つまり「さらば行け、マツコ!」という掛け声を〈マツコ〉に投げかけることになる人物の視点を軸にして物語を展開させてくれればいいだけのことであって、このようにずらずらと御託を並べられるのは迷惑であり、我々読者も書き手にそこまでの真摯さを求めているわけもなく、過剰な真摯さは、ときとして人を不快にさせるものであり、今回もその例に漏れず我々読者を不愉快にさせるには既に十分なほどまわりくどい小説となってしまっているように思える。我々読者が求めているのは、馬鹿正直な書き手の独白でも小説論でもない、『さらば行け、マツコ!』と題された、一人の女性の半生なのか一生なのか、分からぬが〈マツコ〉が実在する世界の営みに触れ、何らかの感慨を得ることである。であれば、我々読者が望む通り、小説は書かれるべきであり、この小説も、我々読者に読まれ、認められることを願っている。ならば次に来る文章は、存在しない〈マツコ〉を存在させうることができる人物の登場でなければならない。前置きが長くなってしまったが、ここでようやくオサムが登場する。

 実在する〈マツコ〉を探すためにここへ来たオサムは、自らに与えられた使命のことなど露知らず、呑気に小説を書いていた。つまり小説の中で、小説を書いていたということになる。もちろん当人は呑気ではないかもしれぬが、呑気と書かれてしまえば呑気になることは、小説を書く身のオサムであれば甘んじて受け入れてくれるだろう。
オサムは部屋にこもり原稿用紙を広げるが、広げるだけである。原稿用紙の雰囲気だけを楽しんで、実際にはパソコンで小説を書く。オサムの住む時代には、パソコンがある。家ではユーチューブの動画だかSNSだとかに気をとられてしまうので、街に出る。小説が集中して書けるような良い雰囲気で、静寂な……というよりはもっと現金に、安くコーヒーを買えて長いあいだ居座れるチェーン店のカフェを探す。オサムは気合を入れる。一人でも自分の小説を読み「わたしはあなたのあの小説にすくわれた」と言ってくれたなら死んでもいいと思い、それだけを夢見ている。しかしたった一人に認められたとき、もう一人、もう二人、と欲が出てくることはまだ知らないらしい。それでもよい。気合が入るなら。気合が入って、街に出ると言うのなら。この場でオサムに与えられている使命はだれかをすくう小説を書くことではない。

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