小説

『さらば行け、マツコ!』ノリ・ケンゾウ(『めくら草紙』太宰治)

 パソコンを鞄に入れて家を出たオサムにかかる期待はもう我々の目には明らかである。実在しない〈マツコ〉を可視化させるためだけに、オサムはこの世界にやってきている。街に出て、カフェに行けば、店員として働く清く麗しい少女〈マツコ〉や、窓際の席に座り、文庫本のページに目を落とす眼鏡をかけた素朴な文学少女〈マツコ〉、あるいは別の姿かたちで、性別や年齢も様々である数多の可能性を孕んだ〈マツコ〉に、オサムは遭遇するかもしれない。〈マツコ〉に遭遇したオサムは、なんらかの些末な出来事をきっかけに、言葉を交わす。これより先、〈マツコ〉がどこかへ旅立つ瞬間がきて、「さらば行け、マツコ!」と自らの口で叫ぶことになるとは全く思っていないオサムは、〈マツコ〉に一目ぼれをするかもしれない。あるいはこうとも言える。この場で〈マツコ〉に一目ぼれしなければ、涙ぐむか、怒っているのか、鼓舞しているのか、分からぬが「さらば行け、マツコ!」と目一杯に声をあげるオサムを我々は想像できない。実在しうる〈マツコ〉は、なぜどこかへ旅立つのか、我々は様々な目算を立てる。〈マツコ〉は学校に行くために上京する。〈マツコ〉は妻子持ちの男との不倫の末に自ら命を絶つ。〈マツコ〉は磨き上げた肉体と技術でもって、オリンピックを目指す。〈マツコ〉は走る、誰も追いつけないくらいのスピードで、どこまでも、どこまでも、背中が見えなくなる、見えなくなって、二度と戻らない。〈マツコ〉は地球に迫りくる隕石から皆を守るため、コックピットに乗って突撃する、きっともう、地上には帰れない。〈マツコ〉の背中に翼が生え、大きく広げた翼の優雅な動きに見惚れているあいだに、やがて姿が見えなくなる。実在していない〈マツコ〉は、姿をいかようにも変化させて、増殖していく。しかし増殖した〈マツコ〉たちは、『さらば行け、マツコ!』の世界では未だ実像を結べていない。我々がこの世界に存在しうる〈マツコ〉の姿を見ることは、オサムの目を通してでしかありえない。だからオサムは注文する。コーヒーを一つ。アイスですか、ホットですか。と言った彼女が、〈マツコ〉なのだろうか。しかしメニューを見るばかりで顔を上げないオサムの目からは、彼女の姿は確認できない。声から察せられる印象は、我々の想像する〈マツコ〉から遠からずのようにも思えるがそれは我々の各個人のあいだでも相違がある。相違する感覚を統一するために、オサムはいるわけであるが、そのオサムが彼女の姿を目に留めないのであれば、彼女は〈マツコ〉ではないと察するしかない。たとえ彼女がマツコという名であったとしても、オサムがそれを認知しないとすれば、〈マツコ〉ではないことだけはたしかなのである。つまり重要なのは我々が探しているのが、たんにマツコという名の彼女なのではなくて、〈マツコ〉という彼女(あるいは彼)であるということだ。オサムはコーヒーを受け取ると少し顔を上げ、視界にほんの数秒店員の顔を捉える。視界に入った彼女の姿を見て、我々は目を凝らし、彼女が〈マツコ〉かどうか考えを巡らすが、オサムが確認する気がないのであればその緊張は徒労に終わる。トレーに乗ったカップが滑ってコーヒーが零れないように、慎重に席まで歩いて持っていき、席に座ると、窓際の席に座る眼鏡をかけた少女と目が合う。合っている、ように我々には見えたけれども、少女が見ていたのも、オサムが見ていたのも、お互いの目ではなくてそれらを含んだ風景を視界に入れていただけなので、互いの視線はすれ違う。いや、すれ違ってすらいないのかもしれない。彼女もきっと〈マツコ〉ではないのだろうから。我々は次第に〈マツコ〉を探す緊張感から解き放たれている。ある予感が、我々の脳裏に思い浮かぶからである。

〈マツコ〉は永久に、この世界には現れない。

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