小説

『さらば行け、マツコ!』ノリ・ケンゾウ(『めくら草紙』太宰治)

『さらば行け、マツコ!』という題の小説がここに書かれるとする。であれば当然、そこには「さらば行け、マツコ!」と言う人物の登場があることは我々読者にとっては想像に容易い。つまり我々読者がこの題を読んで始めに想起することは、〈マツコ〉なる人物が、クライマックスか、あるいはその途中でも冒頭部分でも構わないのだが、私たちが知りえない(あくまでこの時点では)所以を持ってどこか遠くに旅立つことを示唆しているに違いないということである。マツコという人物がいる。マツコと言う人物を見ている誰かがいる。誰かはマツコを見送る。そして叫ぶ、「さらば行け、マツコ!」。ここまでがこのタイトルを付与された小説が見せるべき納得のいく展開であり、また取るべきふさわしい態度でもある。
 しかしここで早くも我々(あえて主語を「我々」と表現することで、このくだらない構造に対する免罪符代わりに、読者を巻き込ませてもらう)は、この小説の不自然さに直面しなければいけない。いきなり不自然と言われても、今のところ我々にはなんら不思議ないので困惑するかもしれないが、聞けばすぐに了解してもらえるはずだ。以下の文章がそれに当たる。
 現時点において、〈マツコ〉は不在である。

 現時点において、存在しない〈マツコ〉を、タイトルゆえ我々は想起しており、そしてこの存在しない〈マツコ〉が、どこかへ旅立ち、また不在になる瞬間を待ちわびているわけである。この事実が指し示す不自然さは、不自然ではあれ、実は我々読者が小説を読むにあたって常に直面している不自然さであり、なおかつ本来であればさして不自然さを孕むことはない事象である。我々読者が『さらば行け、マツコ!』という小説を目の前にし、実体を持つ書物であればページをめくり、実体のないデーターの体をなすのであれば、ページをクリックする。ページを読み進めるうちに、いずれ〈マツコ〉が現れて、我々は改めて準備する。いつか旅立つであろう〈マツコ〉の、一挙手一投足に注目し、「さらば行け、マツコ!」なる瞬間を見逃すまいと、目を凝らす。それらは読者としては至って普通の行動であり、不自然さなどが紛れ込む余地がないように思える。
 しかしそれを不自然とたらしめているのは、この小説が、今まさにここで書き綴られているという現在進行性のせいであり、『さらば行け、マツコ!』とされた題の小説は、実は〈マツコ〉の登場すら保証されていない。しかしながら文頭にも書かれている通り、すでに決められたタイトル『さらば行け、マツコ!』が、書き始める前から決められてしまったがゆえ、〈マツコ〉なる人物が、『さらば行け、マツコ!』なる作品世界の中で、まだ身体を与えられていない状況が発生してしまっているということである。一見、『さらば行け、マツコ!』がタイトルとして認められるというロジックを取るならば、そこから想起される〈マツコ〉も同様に存在しているとする見方もあるかもしれないが、〈マツコ〉が存在するためには、ただ言葉で〈マツコ〉と存在しているだけでは、小説の世界において彼女(あるいは彼)の存在を証明するには時期尚早である。未だ〈マツコ〉の身体性が浮かび上がってはいない以上、〈マツコ〉の存在を認めるべきではない、という立場を我々読者はとるべきなのである。

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