小説

『フェイスケ』もりまりこ(『嘘』『久助君の話』新美南吉)

 蛍原は熱血漢っていうのともちがう。なんていうか。教室という空間を今とは違う場所へと、変えようとしていた。窓を開けて換気したら、この匂い何っていう脳天をささやかに刺激するような、たとえて言うとイランイランの風がふいに入り込んできたような。イランイランが嫌ならクリアミントの匂いでもいい。たしかにウザすぎる。でも、生徒らはちょっとその気になっていた。日常なんとかしろよって気分だったから。久助もその気になって、本多ヘイスケになろうとした。本多は、1年ののっけからいろいろと盛るタイプで、まぁ根っからの嘘つきだった。だったというかそう思われていた。
 いつだったか、ヘイスケは言った。満月の夜にカタツムリが歩いてゆくんだって。誰も何処に? とか聞かないけれど久助は、密かに心の中で何処に? って問いかけていた。満月の夜は東に。新月の夜には、西に向かって。知ってた? っていう素振りもしないけれど、知らないうちにみんなヘイスケの言葉に耳を傾けていて側にいるみんなが、見たんかい? 知らんわいとかツッコんで嘘だろって言っても、ヘイスケは動じなかった。だからなに? って逆にみんなを一瞥した。地球の磁力を感じとってるからだよ、あいつらの身体の中にはそういうセンサーがあるんだって。嘯いたような眼をした。その時、みんなと同じようなリアクションを久助もしたけれど。この動じなさに、ちょっとだけ心の奥底で惹かれていた。
 いつだったか、遠くでクレーンから何かを落としたような振動が教室まで響きわたる工事の音がしていたことがあった。場合によっては、教師の声さえも遠くで聞こえるような。町谷が授業中、隣の席の花山君に向かって大きく口を開けてぱくぱくさせた。すべてにピュアすぎる花山君は、耳が聞こえなくなったのかと思って、耳を押さえたり左右に振ったりした。
 ヘイスケは町谷の子供じみた態度を侮蔑するように視線で秒殺しながら、あの音、夜もしてるよって久助に言った。そして付け加えた。クレーンの音階は銀色に見えるし。田代の怒ってる時の声はオレンジ色でさ、養田先生の咳払いは黄土色。でさ、俺の好きなサカナの<宝島>、あたらしバージョンは紫色。あのサビは紫色にみえるんだって言って、微笑んだ。今僕に微笑んだよね? って確認したくなるぐらい久助に笑みで返した。その顔が、久助の視界の中に突然フィックスされた。前に座っていた前田がそんなのあるかよ? って小声で振り返り呟いた。お前は見えてないのその色? って問い返した。授業が終わった後も、その話がぶり返されてまたフェイクのヘイスケが言ってる。ハイハイとかってなおざりにされても動揺しなかった。ヘイスケは、挙句の果てにフェイスケって呼ばれるようになっていった。

 久助は出来うる限り、ヘイスケになろうとした。
 ヘイスケになるんだけどってヘイスケに言ったら、うん、やってみてって、
 照れてるのか怒ってるのかそういう返事が返ってきて。ヘイスケは誰になるかと思ったら、クラス一どんくさいと言われている花山圭太君だった。

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