小説

『逆立ち、たったそれだけのことが』もりまりこ(『双子の星』)

 スギナ君、相方さんは今日お休みでさびしいね。
 って、囁いて去って行った。
あろうことか。その意地悪な意図で囁いた言葉さえまったくその通りで。どこかで、さびしかったのかもしれないと気づかされてスギナは狼狽えた。だから、身体の弱そうな天野が風邪とかうっかり引かないことをひっそり祈っていた。
残酷な玩具を求めていた彼らは、天野とスギナをふたりでひとつのユニットかなにかのように、捉えては嫌がらせゲームの道具にし始めていた。
 でもそれ以上憶えていることはない。たぶん苛められたりしたんだと思うけど、それは一人の事ではなく天野もコミのことだからスギナは耐えられた。
 酷い目ににあうと、記憶は抜け落ちるものだから。

 ある日。天野は、ほんとうに体育が苦手な男子なのだとスギナは確信した。
 中学の体育の時間。二人一組で逆立ちをするテストがあった。体育館の床を蹴って逆さになると、前にいる相手の足首に手を添えて支える。つまり、逆立ちのテストだった。たったそれだけのことなのに、天野はいつまで経っても、それだけのことができなかった。
 きゅっきゅっと天野が体育館シューズで鳴らす床。天野を見かねたスギナは、犬のおしっこの時ぐらいに上がった天野の足首を、力づくで真上に引き上げた。その瞬間だけを見れば、うまく逆立ちをしたように見えた。天野は、逆立つ髪の毛を垂らしながら、「あ、百日紅」って呟いた。うまく聞こえなくて、え? なに? って呟いた時に天野の視線を辿ると、体育館の扉が開いていて。百日紅の幹だけがみえていた。天野の逆立ちの足首を持ちながら、紅い花を探そうとした時バランスを失って、彼は体育館の床に崩れ落ちた。再度試行していたら、双子が逆立ちしてる、どっちかわかんねえよ。って声が聞こえてきて、天野は泣きそうになっていた。
体育教師前山が、それを言い放ったテリーという仇名で通ってる、俺は本名はしらないヤツを指さして、運動場10周走ってこいって罰を与えた。
 なんとなく、体育教師の前山は、君たちの味方みたいな態度を貫き続けてくれた。教師によっては、その双子の片割れとか平気で言うやつがいて、そういう時、天野は苦々しい表情で応じてしまうのだけれど、スギナは完全にシカトしてやり過ごした。
 そういう意味で前山は、かなり良心的だったのだ。

 それから1年経って、ちょっとした事件が起きた。天野とじぶんの廻りで起きたことだけは、スギナは記憶している。
 ある日、クラスの委員を決めてゆく、どこの学校もやっているだろう選挙が実施された。さまざまな委員が滞りなく選ばれた後、次は体育委員ってことになって、スギナは適当に、少年サッカー大会とかで10番をつけていた、星君に一票を入れた。妥当だと思ったからだ。星君は、ほんとうに俺たちにも適当にやさしくて。いつだったかスギナが取り損なったプリントの束が廊下に、ばらばらと零れ落ちる寸前を、察知していたかのように手を差し伸べて、またたく速さで拾ってくれるようなタイプの男子だった。それを見ている、女子たちからは、<断然星君好き>っていうみえない光線が彼女たちの身体や髪から放たれてるような感じがした。

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