小説

『呼ぶ女』中山喬章(『オオカミ少年』)

段ボール箱に描かれたニワトリのイラストと、「ジェンゲル・アヤム」という文字を、私は管理人室の窓越しに眺めていた。聞き慣れない言葉だ。外国語だろうか。
 翌日、佐倉香を見掛けると、私はこう尋ねた。
「引っ越すのは、まだ先のことになるのかな?」
 佐倉香は「えっ?」と声を上げた。
「いや、昨日、お届け物がたくさんあったみたいだから」
「あっ、あれは……、間違ってたくさん注文しちゃったんです」
「なんか、ニワトリの絵が描いてなかったっけ」
「はい。ニワトリさんのトサカから作られたサプリメントで、肌にとっても良いみたいなんです。深夜にテレビを見ていたときに通販のCMが流れてて、その時、一人でお酒を飲んでいて、かなり酔っていたみたいで……。インターネットで二十箱も注文しちゃったんです。しかも私が注文したのは、二十四箱入りの段ボール箱を二十箱で……」
「そんなにたくさん注文して、ニワトリに恨まれやしないかい?」
 冗談を言ってみたつもりだったが、佐倉香には逆効果だったのか、彼女は少しの間、黙り込んでしまった。
「でも、まだ返品できるんじゃないの?」
「そうですけど、なんか申し訳ないので……。やめておきます」
 あんなにたくさんのサプリメントを一体どうするのか。
 消費期限がやって来る前までに全て飲み切ることが出来るのだろうか。やはり、家族や親戚、友達にお裾分けするつもりなのだろうか。
 いや、私ならまずお金のことを気に掛ける。まぁ、佐倉香の場合、実家が裕福だから気にする必要はないのかもしれないが。
 それにしても不思議な話だ。引っ越しの費用を少しでも安くしようと何度も見積もりを呼ぶくせに、誤って大量に注文したサプリメントの返品はためらうなんて……。
 その後も大型の段ボール箱が、通販の配達業者によって何度か運び込まれた。
 段ボール箱の搬入が下火を迎えたかと思うと、寿司の出前がやって来ることが増えた。
 一日三回、朝と昼と夜に寿司を頼んでいるようだ。
 また、この頃から佐倉香の姿を見掛けることはめっきり少なくなった。
 ただ、これは別に驚くことではない。芸大に通う学生の多いこのマンションではよくある話だ。
自室に籠もって作品の制作に没頭する学生もいれば、外部との接触を断つことで自らの世界観を醸成させてゆく学生もいる。
きっと、佐倉香も、そんな孤高の芸術家の一人なのだろう。
 それにしても贅沢この上ない話だ。きっと、物凄く寿司が好きなのだろう。そうかと思うと、今度はピザの宅配サービスがやって来ることが増え、寿司の出前は来なくなった。

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