小説

『白い影』和織(『影のない犯人』)

 妹は、何かとても不服なことがあるとでもいうような顔で個室へ入ってきた。兄はそんな妹の顔を全く気にせず、笑顔を作った。それが、妹が自分といるときのスタンダードな表情だと認識しているからだ。
「悪いね忙しいのに。勝手に決めちゃったけど、和食、好きだったよな?」
「確かに忙しいよ、兄さんと違って。この店が私のお気に入りだって、誰から聞いたの?」
 表情を変えないままそう言って、妹は兄の前に座った。
「嫌だな、お前が和食が好きなことくらい、自分でちゃんと覚えてるよ」
 兄の方も、作った笑顔を崩さずにそう答えた。妹は、ため息をついた。
「別に、こんな機嫌を取るようなことしなくても、私だって遺産のことは話さなくちゃと思ってたから」
 お通しが運ばれてきて、二人はそれを食べた。次の料理が来るまで、どちらも口をきかなかった。
「私、自分が受け継ぐ分に対して異論はない。揉め事は嫌だし、正直兄さんとも、今後はあまり会いたくない」
 店員が部屋を出るや否や、妹は放たれた矢のような勢いでそう言った。それに対し、兄は対照的にゆっくりと頷いて見せた。兄のそういう動作に、妹はうんざりした。兄は一見、女で体の小さい自分でも、簡単に殺してしまえそうな人間に見える。けれど、それは仮面だと、彼女にはわかっていた。遊んでばかりいるくせに、いや、遊び惚ける為に、いつも人の裏をかくことばかり考えている。自分の兄はそういう人間なのだと、彼に会う度、妹は肝に銘じた。
「そうか、うん、わかった。俺も、同じでいい」
 兄は口の中のものを飲み込んでから、そう言った。
「本当に、そう?」
「え?」
「信用できないって言ってるの」
「でも・・・要らないものは要らないよ。自分のもらう分で十分だ。他の人の分まで取っちゃったら、この先、金を使うことだけに時間を割く人生になっちゃうだろう?なにしろ多すぎる。俺なんかじゃ一生では使い切れない」
 その言葉は、妹にとっては意外だった。少しはまともか、と思ったが、彼女はすぐにその考えを否定した。騙されるものかと意気込んで、軽蔑の眼差しを兄へ向けた。
「自分の父親の奥さんを、友人に寝取らせた人の言葉とは、とても思えないね」
 妹の言葉に、兄は驚いたという表情をしてから、開いた両手を小刻みに振ってみせた。その姿が、まるで操られた人形のようだと、妹は思った。そう思うと、発せられる言葉も、吹替のように感じてしまう。

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