小説

『スワンプボーイ』泉鈍(『沼』『沼地』芥川龍之介)

 どうにもならない怒りに囚われて、これはもう飲むしかないな、だけども、行きつけの店は常連と揉めたばかりだしな。どうしたもんかと普段と違う帰り道を選んで、見知らぬ路地を曲がって曲がって曲がって。
 一軒のバーと出くわした。
 ぱっと見た印象では店の外観は整っているように見えた。店前に並んだ、植木の手入れもよくされている。扉の年季の入りようから、最近できたばかり、というわけでもなさそうだった。建て付けが悪いのか、扉はえらく重かった。おれは力を込めてドアノブを引いた。

 入ってすぐに後悔した。

 古ぼけた内装。耳が腐り落ちそうなシャンソン。店内にはカウンターの内側で幽霊のように突っ立っている中年の男と、カウンターテーブルを陣取っている常連であろう爺さんたちの群れ。なんだ、ここでも説教を食らう羽目になりそうだ……。だが、またあのクソ重たい扉を開けて引き返すのも癪だったので、爺さんたちからしっかりと距離をとったカウンターの端に腰を下ろすと、ウイスキーのロックを頼み、カバンから文庫本を取り出して、秒でひとりの世界に埋没した。幸い、爺さんたちは小声で何事かをボソボソと喋っているだけで、特におれに注意を向けなかった。マスターらしき男も、オーダーが入るとき以外は基本ぼうっと突っ立っているだけでなんの話もふっかけてこない。小一時間、文庫本に没頭して、3、4杯飲んだ頃には、なんだ、案外わるくない店じゃないか、と思えるようにまでなっていた。

 それから、仕事でむしゃくしゃしたことがあった日は必ず立ち寄るようになった。なんせ居心地がいい。いつ行ってもマスターはにこりともせず直立不動の状態でおれを迎えてくれたし、客はボソつく爺さんたちしかいなかった。
 爺さんたちは終始こんな調子。
「これはなんて曲だ?」
「L’invitation au voyageだ」
「お見事」
 お見事もクソもない。いつ行ってもこの曲ばかりかかってる。おれでもそらで歌えそうなほどだ……とまあこんな具合で、誰もおれに関心を払わなかった。おれはただアルコールを頼み、思う存分お気に入りの小説に没頭することができた。煙草だって吸い放題だった。きっちり5本吸うごとに、マスターは灰皿を取り替えた。えらく機械的に。まるでそれが絶対のルールであるかのように。5本目を放り込んだ瞬間に灰皿はカラになった。おれはますますこの店が気に入った。勘定を済ませて店を出ると、入る前に抱えていた怒りや不安や哀しみが不思議と和らいでいた。
 だからだろうか。
 こんなにもこの店に通い詰めることになったのは?

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