小説

『ななつ山』はやくもよいち(『杜子春』)

無言のまま、ママは左手をふり上げました。
すこしのためらいもなく、ハンマーがふり下ろされます。
大晦日につくお寺の鐘が、頭の上で鳴り響いたかのような、大きな音がしました。
陽人はまた、思わず目を閉じ、こんどは両手で耳を押さえました。
音が止み、そうっと目を開くと、ふたたびハンマーがふり上げられています。
あわてて駆け寄ろうとして、陽人は苔に足を滑らせて転んでしまいました。
立ち上がるまでの間に、ママは「ゴン、ゴン、ゴン、ゴン」と続けざまに石を叩きます。
周りの大気が震え、陽人の体にびりびりと振動が伝わりました。
すでに5回も石が叩かれています。
あと2回で「ためし」は失敗、ママは罰を受けなくてはならないでしょう。
2度と山から出られなくなるのです。
どうやって石を守ればいいのか。陽人は台の上を見て、はっと息をのみました。
石の表面が、濡れていることに気がついたのです。
見上げると、ママの苦しげにゆがんだ顔が見えました。
石を濡らしているのは、こぼれ落ちた涙です。
ママが自分の意思で手を動かしているとは思えません。
きっとヤマヒコに操られているのです。
左手がまた、高々とふり上げられました。
新しい涙が、濡れた石の上に音をたてて落ちます。
ハンマーがふり下ろされ、6回目のゴオンという音が鳴り響きました。
石を守るための道具はないだろうかと、陽人は周囲を見回します。
あいにく目の届くところは一面に、緑色の苔が生えているだけでした。
石ころ1つ、木の枝1本、落ちていません。
陽人は岩の台に飛びつくと、両手を重ねて石の上に置きました。
「手をどかして、陽人。あぶないことしないで」
ママの右手が高々と上げられます。
「いやだよ。他に方法がないんだ」
見えない力に抵抗しているのでしょう、ママの右腕がわなわなとふるえ始めました。
歯を食いしばり、ひたいに汗をかいてこらえていますが、今にも力尽きてしまいそうです。
やはり手をどかすわけにはいきません。
「だいじょうぶ、ママのせいじゃないから。僕がしていることだから」
手の甲に、つぎつぎと涙が落ちてきました。
ママはもう、何も言いません。
言えないのかもしれません。

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