小説

『夏光』藤野(『紫陽花』)

 息を切らして兄が戻る。ものも言わずに、肩で息をしながら頷いて、貴女の前でそっと手をひらく。真白な氷のかけらがあらわれる。貴女は白い指でそっと持ち上げると、空の色を映すように頭上に掲げた。透明な光が貴女の頬を照らし、あふれた光がわたしの目の前の地面にこぼれ落ちる。
 貴女はゆっくりと氷から目を離し、期待に満ちた表情で貴女を見上げる兄をふりかえる。眉は悲しげな影を浮かべ、細い首をゆっくりと左右に振る。

「これは一番美しいものではないわ」
 たしなめるようなその声に、兄は少しだけ泣きそうな顔をしたけれど、すぐにまた母屋にかけもどる。貴女はその姿を身じろぎもせずに冷ややかに見つめている。

 戻ってきた兄に貴女は再び首を振る。
「一番美しいものでなくては……」
 ぎゅっと唇を噛み締めて、兄はためらうそぶりなくまた駆け戻る。

 次に戻ってきた兄は、両手いっぱいにたくさんの氷を抱えていた。兄が歩くたびに手から氷がこぼれ落ち、落ちた氷は黒い砂に紛れ光を失い、点々と濡れ染みを地面に残すだけ。

「好きなのとっていいよ」
 兄が白い頬を赤らめて貴女に両手を差し出す。兄の手は白さを通り越して透き通って見えるくらいに氷と馴染んでいた。貴女は赤い唇をわずかに広げ小さな笑みを浮かべて氷を吟味するように顔を寄せる。日の光を受けて溶け始めた氷は兄の手の中で水晶のごとく透き通る。一点の陰りもない美しさだった。

 それなのに。
 貴女は悲しげな顔をして兄の瞳を覗き込む。
「もうないよ」
 兄の声は今度こそ涙に震えていた。
「一番美しいものをいただきたいの」
 そう言いながら、貴女は初めてわたしを振り向いた。わたしの手の中にある一片の氷を。夏光を受けて溶けた氷は空の色に馴染み、紫陽花の色に染まり、夏の光のように輝きを放っていた。

 兄がすまなそうな表情を浮かべ一歩わたしに近づく。
 それはいけない。

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