小説

『夏光』藤野(『紫陽花』)

 わたしはあわてて手を後ろに回す。キュッと強く握った手の中で、氷がどんどんと縮んでいく。
「どうしても?」
 兄の悲しそうな声が庭に響いたが、わたしは強く目を閉じてぶんぶんと首を振った。

「それでは仕方がない」
 貴女の囁くような声が笑い声とともに聞こえ、目を開ける。白い袂を揺らしながら、貴女が兄の手を掴むところだった。兄は貴女のことしか見えないように、大きく貴女を見上げ、その拍子に兄のかぶっていた麦わら帽子が風に飛んだ。

 帽子!
 兄のためにその帽子を拾おうとわたしが走り出した時、もう一度強い風が庭に吹き抜けた。全てを巻き上げ奪い去るような風に思わず目を閉じる。目を開けた時、小さな庭にわたしは一人で立っていた。兄も、貴女も、貴女の付き人も、兄の麦わら帽子すら消えていた。あとに残っていたのは点々と地面に落ちている水染みと、わたしの手の中に残るひんやりとした冷たさだけだった。

1 2 3