小説

『夏光』藤野(『紫陽花』)

 年の頃はいくつだったのか。
 見上げた世界の広さを顧みるに、3つ頃だったのではないだろうか。

 打ち水に輝く紫陽花の庭の中、からりと白い石を拾い、池の端から顔を出す青蛙に放り投げる。コツン、当てが外れた場所に落ちた石の音、蛙は即座に姿を消してしまう。暑き日の静けさの中で、自分が世界の支配者だという子供特有の残酷さが湧き上がり、新たな石に手を伸ばす。

「いけないよ」
 ひんやりとした心地の良い手がわたしをつかむ。3つ上の兄だった。麦わら帽子の下から覗く瞳は黒く濡れ、白いわたしの顔がうつっていた。父も母も、祖父母すらそばにいる気配はみえず、その世界にいるは自分と兄の二人きりだった。兄は右手で額の汗を拭ってくれながら、
「ほらプレゼント」
と言って、もう片方の手を差し出した。

 兄の手一杯に氷のかけらが大小二つ握られていた。
「好きな方をあげるよ」
 兄の額からポタリと汗がしたたり、氷のかけらに艶が増す。池の緑と紫陽花の紫、さらに空の青がくわわってこの世の全てをうつすかのような怪しく魅惑的な光を放つ。迷わず大きなかけらに手を伸ばしたわたしに兄がにこりと微笑んだ。

 その時、
 兄とわたし二人きりのはずの庭に白い声が響いた。
「私にも氷をいただけないかしら」

 貴女がそこに立っていた。真白な着物を纏った貴女は夏の暑さと無縁の涼しげな微笑みを浮かべ、その後ろからはもう少し年かさの女が涼傘を貴女にさしかけていた。白い着物の袂がひらりと風に揺れて夏光を跳ね返し、黒髪がきらめく。

 貴女をぼんやりと見つめる兄に、貴女は腰をかがめて兄の瞳を覗き込みながら、柔らかな声でもう一度囁いた。
「一番美しい氷をいただける?」

 兄はあわてて母屋へとかけもどる。
 わたしは兄からもらった氷をしっかりと握りしめる。痛いくらいの冷たさが手のひらを刺す。貴女もお付きの女性もちらりともわたしをみず、薄い微笑みを浮かべながら兄が走っていった方向を眺めていた。

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