小説

『去』津田(『桃太郎』)

「でしょう。凄く吃驚したものよ」
「その、大きな桃は、どこにあるんだ」
「どこって、流れていっちゃいましたよ」
 お爺さんは思わず顔を上げた。今の今まで、お婆さんが桃を持って帰ってきたものだと思っていたものだから、虚を衝かれた気分だった。
「一昨日の雨で、まだ川の水が多くて、流れが強かったんですよ。だから、川上から流れてくるのを見つけて――次には、もう川下へ行っちゃいました。もう少しゆっくり流れてくれればねぇ」
「いや、いや、何でどうにか捕まえなかったんだよ。もったいない」
「もったいない、って……無理なものは無理ですもの」
 お爺さんは、それ以上何も言えなかった。ただお婆さんの間抜な行動の始終を想像して、腹の奥底で苛々を沸き立たせた。
 ――お婆さんもまた、俺と同じに、山の巨大な退屈に、寄辺のない孤独に耐えているものだと、別世界への入口になり得る何物かを見つければ飛びつくだろうと、同じ期待を抱いているものと思っていたのだ。それが、なんだ、巨大な桃を発見しようとも大した執着もせず、あっさり見放してしまうのか。
 食事を終え、囲炉裏の火を眺めている間も、お爺さんはぶつぶつ悪態をこぼした。試しに山を下り、沢の行着くところまで行ってやろうかと腰を上げたが、すぐに諦めた。
桃はとっくに、山の流から放たれ、どこか平地の川をどんぶらっこと進んでいる最中だろう。やがては海へ、そして途方もないほどの暗い海の底へ沈むのだ。そんな途方もない想像で、お爺さんは満腹になってしまい、寝支度をした。

 ところで件の桃はと言えば。その桃はお婆さんの語る通り、赤子ひとりが充分眠れるほどの大きさの、それはそれは巨大な桃だった。そんな大きさのもの、見つけたのがお婆さんひとりでないのは言うまでもない。畑を耕す百姓、客の入に不服を来す商人、ぼうっと川を眺めていた侍、他様々な人々が、まるで意志を抱えたように岩などを避けて流れる桃を目撃したが、誰もそいつを捕まえようとはしなかった。皆、それぞれの仕事で心がいっぱいいっぱいで、ほとんど空想の産物の如き巨大な桃などに、かける労力を持ち合わせていなかった。
 そいつはお爺さんの想像通り、川を悠々と進み、海へ出た。規則があるのかないのか、生命で満ちているのか死水の鍋なのか、よくわからない海の段々になった波にさらされた末、ある島へ漂着した。
 お婆さんとの出逢から、漂着まで、膨大な時間が過ぎてしまった。海の塩分に浸され、日照を浴び続けた桃は、一片腐り、一片乾きと、当初の綺麗な色は見るも無残、不気味な肉塊となり果てていた。
 しばらくすると、島で棲息する蝿たちが桃の塊へ群がった。そのうちとんでもない異臭が果肉の隙間から漏れて、それに気づいた島の住人が様子見にやってきた。隙間を覗いた住人のひとりが、わっと、大柄な体躯に似合わぬ間抜な声を響かせた。

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