小説

『だからだめなんだ』常世田美穂(『ダスゲマイネ』)

「は? 俺次郎って名前じゃないけど。お前、一年も付き合ってて俺の名前勘違いしてたの?」
「違う違う。太宰治の小説に、佐野次郎ってやつがいるの。お前、まんまそいつなんだもん」
「そうなの?」
「うん。そうなの」
 宮地は軽く手をあげて店員を呼んだ。川瀬さんが近づいてきて、俺の心臓は跳ねる。サングリアと綺麗な低音が響く。宮地は時々、女の子が好きそうな可愛らしい酒を頼む。
「太宰治ってさ、走れメロス?」
「佐野にしてはわかってんじゃん」
「うっせ。それくらいわかるわ」
「じゃあ、佐野次郎が出てくる小説は、なんていうタイトルでしょう?」
「えー、そこは教えろよ」
「教えない」
「なんで」
 頭が悪いわけじゃないけれど読書は苦手だ。宮地はどうせタイトルを教えたところで俺が読むはずがないとでも思っていたのだろうか。それとも、これからの行く末のために、気を遣っていたのだろうか。

 佐野次郎の所在なんてググってしまえばなんのそのだ。太宰治、佐野次郎で探索すれば一発だった。あっけないな、と思いつつ、この世の真理だ、とも思う。頭が悪いわけじゃないがよくもないので、説明はできない。ちょっと気取ってみたかった。
 ダウンロードして早速読んでみる。活字なんて普段読まないから、やっぱり俺には難しい。数行読んで言葉が理解できなかったので諦めてスマホを放り投げる。ああ、会いたい。頭が真っ白になるセックスをもう一度したい。それはあの子としかできないものだ。俺はベッドの上で身悶えした。
 恋ってつまりはセックスなのだろうか。脳内を占めるのはふわふわとしたおっぱいの柔らかさと快感ばかりで、その他はあまり覚えていない。そのうち女の子の名前も忘れてしまいそうだ。てか忘れた。最低だ、俺。宮地の呆れた笑い顔が浮かんだ。
「川瀬さん……」
 バーの彼女の名前なら覚えている。しっかりと。だってネームプレート見えるし。本命を忘れてセカンドに逃げる。似てるからいいか、なんて下半身が訴えている。あのとき、確かに俺は恋をしたと思っていたのに、この虚しさはなんだろう。恋ってなんだ。活字みたいに難しい。最後まで読まないと、わからないものなのかな。

 わからないので通い続けることにした。川瀬さんのいるバーは女性客が多くて俺は浮く。それでも恥を忍んで彼女に会いに行くと、彼女はいつも笑ってくれる。最近は営業スマイルじゃなくなったような気がして、俺の心は弾んでいた。
「いつものでいいですか?」

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