小説

『GUM』松野志部彦(『貨幣』)

 泣きたくて、それでいて笑いたくなるような悦び。
 こんなことが本当に許されるのか、と自問してしまうほどの快楽。
 それが波となって何度も打ち寄せ、私の体の隅々までを支配しました。この世に生を享けた意味がやっとわかった気がして、嬉しさのあまり、私は何度も声を漏らしてしまいました。それに呼応し、体を駆け巡る電流はますます強弱を繰り返すのです。
 そんな現実味を帯びない時間を、私は心ゆくまで味わいました。あの時のことを思い出すと、今でも体が火照ってしまいます。
 まさか、食されるということが、これほどの幸せをもたらしてくれるなんて。
 事後のとろけるような余韻にまどろみながら、私は少し怖い思いをしたくらいです。
 ずっと、この時が続けばいいのに……。
 心の底から私はそう願いました。
 ですが……、皆さんはもうおわかりでしょう。
 そう、私は、この最も愛しい殿方にも捨てられてしまったのです。すっかり甘みを失くし、何が何やらわからぬ不気味な塊となって、今では公園の排水溝の傍にへばりついているのです。

 それは突然の出来事でした。
 ゆっくり甘噛みしていた歯が止まったかと思うと、果ててぐったりしていた私の体を、舌が唇の隙間へ押し出したのです。「あっ」と思った瞬間には、私はもう吹き飛ばされ、宙を舞っていました。外界の光に眩しく照らされた途端、冷や水を浴びせられたかのように私の意識も醒めました。
 辺りは街中の小さな公園のようでした。どうやら殿方は私を味わう間、園内のベンチに腰かけてお休みしていたようです。
 地面へ吐き捨てられた私は束の間、変わり果てた自分の姿に呆然としました。かつて私の目の前で吐き捨てられた、あの可哀想な仲間と同じぐらい無惨な有様でした。それはこの世で最も残酷な絶望と呼べるに違いありません。
 私をご寵愛くださった殿方は、もうこちらを一瞥すらせずに去ろうとしています。私は泣きながらその背中へ呼びかけ、身を捩じって叫びましたが、かの御方が振り向くことはとうとうありませんでした。
 そうして私は、昼下がりの見知らぬ公園の片隅で、余生を送る事を決定づけられたのです。

 散々に泣き喚いた後、私はかつてのあの悲観的な仲間の話を思い出していました。
 あの話は嘘ではなかった。
 こんな酷い事があっていいのだろうか。捨ててしまうくらいならば、なぜ産み落したのだろうか。自分はどうして、飲み込まれることすら敵わないお菓子に生まれついてしまったのだろうか。
 己の運命を激しく呪いましたが、しかし、それでも……、私は人を憎む事ができませんでした。私達は本来、捨てられる為に生まれてきた。そう考えることが、今ではなにより自然なことに思えるのです。ちょっと悲しいだけの、ごく自然な摂理の一部に過ぎないのです。
 私は涙のあとのからっぽな心で、今まで歩んできた道を振り返りました。
 桂木氏、増田女史、増田女史の弟さん、弟さんの先生、お髭の殿方。

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