小説

『Jack of』志水菜々瑛(『ジャックと豆の木』)

「なにしてるんだよっ!!!!」
 叫ぶと同時に母さんの肩をつかみ、強引に振り向かせようとした。倒れこんだ母さんは床をふるえる瞳で見つめながら、小さな声でつぶやく。
「今日母さんね、逃げた仔牛を追いかけたの。豆の木のところまで。…母さんとの約束、何も守っていなかったのね。」
 心がつまった。約束を破っていたわずかな罪悪感、壊れた母さんの姿、正当化される言い訳、そして8年間築き上げてきたこの家の息苦しさが、僕の心を押しつぶし、ああ、心はそこにあったのかと痛みを知ってはじめて、その居場所に気づく。今まで溜めてきた不満を、怒りを、ぶつけてやりたいのに言葉にできなくて、のどに詰まっていく。
 消えていく父さんのかけら。被害者のように肩を震わせる母さん。食卓に並ぶ茶色のパン。もう限界だ。呪縛から逃げるように、僕は家をでた。雨の中、豆の木のある森へ。

 
 「天国だ!」
 青空と太陽を見上げ叫んだ。目の前に雲の海が広がる。僕は海を踏んでいる。
 家を飛び出した僕は、自暴自棄気味に豆の木を登った。雲の上にあの世があるなら行ってやるさ。雨風にさらされ、しがみつくように必死に登り、そしてどうだろう。真っ白な雲海の地面、晴れ渡る空、大きなお城! ここは天国だ!!
 靴を脱ぎ捨て、城に向かって雲の大地を駆け抜ける。なんて自由! 勢いよく門を潜り抜け、ダンスホールに突っ込む。
 チリ一つない純白の大理石の床。素足がひんやりとした冷たさを感じる。吹き抜けを見上げると、大きな窓からさす日の光を浴びきらきらと輝くシャンデリア。反射した光が僕の頬をさし、ようこそ主人公、雲の上の世界へ! 迎えてくれている。目をつむり、感動に浸る。ああ、夢の世界! 美しい世界! 豆の木の上にこんな世界があっただなんて!!

「どこから来たんだい?」

 突然の声。はっと目をあける。目の前には毛むくじゃらの壁しかない。顔をほぼ真上に向ける。毛むくじゃらの顔があった。でかいわりに小さな目、眉がどれだかわからない。そして頭には、これまた不釣り合いな大きさの帽子を頭にのけっている。でかい。圧倒される。声が出ない。低い声がもう一度ゆっくりと聞いてくる。

「どこから来たんだい?」

「地上からさ。」
 二度目の問いかけで声を取り戻した僕はすました声で返した。毛むくじゃらの大男は怖かったが、襲ってきそうなそぶりはない。
「そうか。」
 毛むくじゃらの大男は、小さな黒い瞳を細めながら言った。
「お前、細いな。」
「ああ、そうさ。僕は貧乏なんだ。貧乏好きな母さんのせいさ。」
「そうか。」

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