小説

『草笛の庭』倉吉杜季(『おくのほそ道』)

 けれどそういった確固たる信念と遠大なビジョンに基づいた経営方針は多くのスタッフにとって、ただ強引でワンマンなやり方として映っただけだった。スタッフは口を出せず、スポンサーも離れていき、気がつけば時代の移り変わりに取り残されてしまった古くさい遊園地は経営が立ちゆかなくなって、やがて閉園の時を迎えた。
 建物が取り壊され、木も切り倒され、更地にされていく様を、男はどうすることもできずに見つめていた。『エバーランド』を失った男はその後何をやっても上手くいかず、仕事を手放した自分に愛想を尽かして家族までもが離れていった。
 男にはもう仕事も、家族も、金も、夢も何も残されておらず、年老いた今、手元にはあれから買い手も付かないまま、好き放題にぼうぼうと草の生い茂ったこの荒地があるだけだった。

 今日も煉瓦塀の残骸に腰かけて、風に任せてうねる草っぱらを男はぼんやりと見つめていた。
 そういえば昔、ちょうどこんな風な草むらを眺めて詠んだ俳句があったように思う。あれは確か、松尾芭蕉の『おくのほそ道』であったろうか。

  夏草や 兵どもが 夢の跡

 かつて隆盛を極めた一族の末路には、何もない草はらが広がっていたという。栄枯盛衰、諸行無常、いっときの栄華もまたうたかたのごとし。想いは築き上げた功名と共に散り去り、夢の果てた地を後年になって見た芭蕉はその時何を思ったのだろう。それは後世の人間がこの『エバーランド』の跡地を見たとき、よぎる感情と同じものだろうか。
 兵たちも、これはほんの儚いうたかたの夢であることを分かっていたのだろうか。
 絵画のような青空と夏草の緑のコントラストが鮮やかすぎて、それがまぶしくて、虚しくて、孤独になる。まるでこの世界にいま自分ひとりが取り残されたように。
 それでも男には夢があった。理想を描き、精一杯のホスピタリティを注いできたつもりだった。自分がかつて安らぎに包まれたり、高揚感に胸躍らせて冒険した世界を訪れてくれる人たちに幸せな一日を過ごしてもらえるようにと。ここに来れば、幼いあの頃自分のそばにあった喜びを感じてもらえるはずだと信じてきた。そのために全てを懸けてやってきたのだ。

 私は間違っていたのか。人生のほとんどを費やして、いったい何をやってきたのか。多額の金と情熱を注ぎ込んだ結果いま、いったい何が残ったのか。
 力なく腰かけたまま、老いた男は広い空を仰いで自嘲した。

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