小説

『魂齢を量る階段』小原友紀(『お階段めぐり』)

 男は立ち尽くしていた、かの有名な、彼岸(ひがん)なる時空に。
 もはや肉体の無き今、漂っていると言うべきか。それにしては、四肢の感覚がおぼろげに残り、弱り細って黄ばんだ己の手が分かる。
「此(し)岸(がん)の柵(しがらみ)、存分に味わい尽くしたであろう」
 耳でとらえる音ではない、言葉であるかどうかも分からない。目的も正体も分からない何か、意志と言うべきものが、己に向かって呼びかけてくる。
「汝(なんじ)、留まるなかれ。新たなる命を獲得せよ」
 音無き声の主は、影も形も無く、調子も高低も温度も感じ取れない。ただ、魂の内を圧するような重厚感で迫ってくる。己の内より出(い)づるようで、果てなく遠い彼方から流れてくるようでもある。生と死が混濁した境界線上に在る男を、さも自然に、淡々と、彼岸の奥へと導いていく。
 彼(あ)の世なる薄闇の宙(そら)に、透明の段が連なって浮かんでいる。何処(いずこ)より出(い)で、何処へと続くのか、始まりと終わりをとらえられない。前後左右、上も下も在るのか無いのか。平面に閉じ込められたような錯覚と、捉えきれない奥行きを仰ぐ途方のなさが、奇妙に絡まり合っている。
 あたかも新人の曲芸師が古株にどやされせっつかれ、高所のわずかな足場へと震えを堪えて踏み出すように、男は空を渡る階段へと進んだ。
 階段の様相は目まぐるしく、留まる暇なく変幻を繰り返している。風を凌ぐ豪勢な屋根が取り払われ、鋭い突風に吹きさらされる。両端に彩られていた艶やかな花々は散り、刺々しい茨が張り巡らされていく。木の温もりのような心地よさは、鉄のごとき無機質さに取って代わられる。天上へと渡されたはずの階段は、雨雲のような靄に覆い隠されてしまった。
 段面の模様が蠢(うごめ)き始め、骸骨の姿を象っていく。大鎌を携えた骸骨が、赤子から老人まであらゆる世代と輪舞する様が描き出されていく。現世(うつしよ)の人々と遊び戯れる死神の像(え)が、何十段にも連なり続いている。
「此(こ)の世の権勢、富、美――形あるもの全て、死を以て消滅し、無に帰す」
 乾いた声が厳かに響き、魂の内臓(はらわた)に染み入ってくる。
「繋(つな)ぐは己が魂のみ。転生に際し、その魂(こん)齢(れい)を見定めん」
 死者の魂を量る、冥界の裁者か――量る程の容量も無い魂さえも。
 さしずめ、善悪の別なく、全ての死者が通る分岐点であろうか。天の頂の楽園も、地の底の苦界も、創造の産物たる与太話に過ぎないと思っていた。死してなお、行き着く先は、未だに知れない。
「肉体の経年変化とは異なる、魂の齢(よわい)と言うべき、内なる成熟――生まれ年の同じ者は数多(あまた)あれど、魂の練達さは千差万別。眼に視(み)える違いに比べると、あまりにも多様」

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