小説

『夜光虫のいる海』緋川小夏(『姥捨て山』)

 母を背負って海まで続く長い坂を下る。
 母は何も言わずに、ただ黙って背負われている。私は前を向いているので、母がどんな表情で背負われているのかわからない。
 波の音が潮を含んだ湿った風に乗って耳の穴に忍び込む。歩くたびにスカートの裾がめくれる。どうしてこんな時にスカートなんて、と私はしきり後悔している。
 海岸に出ると満月が煌々と水面を照らしていた。砂浜ではハマユウの花が純白の花弁を夜風に揺らして甘い香りを漂わせている。
 私のすぐ後ろを歩いていた中年の女性が無表情のまま波打ち際まで進み、背負っていた老婆を乱暴に降ろした。そして不安そうに遠くを見つめる老婆の背中を、海に向けて静かに、そして確実に押した。
 見回すと浜辺には思ったよりもたくさんの人がいた。
 若い女性は泣きながら赤ちゃんを海に向かって放り投げている。赤ちゃんは暗い宙に小さな弧を描いて、ぽちゃんと水の中へ堕ちた。目を瞑ると瞼の裏に白いベビー服が残像となって甦った。
 猫背の青年は海に入って行く初老の男性の姿を、少し悲しそうな表情で見送っている。男性はゆっくりとした足取りで振り返りもせず進み、老いた小さな体は少しずつ海に飲み込まれてゆく。
 静かだった。
 取り乱したり泣いたりしている人は誰もいない。母親らしき女性に手を引かれている小さな子供でさえ、何も映らないガラス玉のような瞳で月の光に輝く海を見つめているだけだ。
 波打ち際では夜光虫が水の中で淡い光を放っている。たとえ海の中が冷たく音も無く心細い世界だったとしても、この美しい光が水底に沈んでゆく人々の心をなぐさめてくれるのではないか、と私は思う。
 私は母親を棄てるために、この海に来た。
 お嬢様育ちの母は我が強く我儘で、私は物心ついた頃からずっとその理不尽な行動に振り回されてきた。母は自分の身の回りのもの全てを支配したかったのだ。でも私は「もの」ではない。ちっぽけだけど、一人の人間だ。
 あの人は小さな子供にも、ましてや自分が産んだ娘にも一人前に感情や人格があるなんて考えてみた事もないのだろう。身体的にも経済的にも無力だった私は、その支配下でじっと耐えるしかなかった。 
 やがて大人になり結婚して出産を経てからも、母の絶対的な支配は続いた。私はもう無力な存在ではない。だから私は自分の意志で母を葬ろうと決めた。
 私はふうっと深いため息をひとつついて、背負っている母を浜辺に降ろした。いつの間にか浜辺には、たくさんのウミガメがいた。海から陸へと這い上がり卵を産む場所を探している。私は卵を産んでいるウミガメの前にそっと座って、その様子を見守った。

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