小説

『夜光虫のいる海』緋川小夏(『姥捨て山』)

 私は立ち上がると、お尻についた砂を手でパンパンと払った。母もつられて立ち上がる。私は母の体についた砂もはたいてあげた。これが娘として、母にしてあげられる最後の孝行なのだと思い、砂が落ちてからもしつこいくらいに母の尻を叩き続けた。
 海面で魚が跳ねた。跳ねた魚の青白い腹と水飛沫が、月の光を浴びて輝くのを見た。それを合図に、私は母の手を引いて波打ち際までゆっくりと進む。心の中は、この海のように凪いでいる。
 潮の香りが一段と強くなって、体の隅々までまとわりつく。母のシルエットが月の光に照らされて、広大な大海原を背景にクッキリと浮かび上がる。
 いつしか母の体はやせ細り、ずいぶんと小さくなっていることに気付いて愕然とする。時の流れとは残酷なものだ。でもそれは誰のせいでもないし、憐れむ必要もない。私は折れそうになる気持ちを必死に奮い立たせる。
 ふいに母が強い力で私の腕を掴んだ。
 今になって私に見せるこの執着は、一体どこから湧いて来るのか。あなたは今、自分の娘に棄てられようとしているのよ。もう、遅いのよ。
 私は母の細い指を一本ずつゆっくりと剥がすと、促すように小さな肩を押した。母は一瞬よろめいたけれど、すぐにバランスをたてなおして、その場にしっかりと立った。一歩一歩、暗い海へと入ってゆく。少しずつ母の体は海とシンクロし頭の先が見えなくなって、やがて完全に姿を消した。
 さよなら、お母さん。
 しばらくの間、ぼんやりと海面を眺めた後、私は何かに追い立てられるようにきびすを返した。柔らかい砂の上を足首まで埋もれながら小走りに進む。ウミガメの姿は、もうどこにも無い。砂浜には誰もいない。暗闇が、その色をさらに増して私の背中にのしかかる。決して振り向いてはいけない。 
 私は少し前に母を背負って歩いた坂道を、たしかめるようにひとりで上る。寄せては返す波の音が心臓の鼓動と重なって、私の中で規則正しいリズムを刻む。
 大丈夫。
 海の中では無数の夜光虫が、煌めきながら母を迎えてくれているはずだ。棄てられた人々の体は魚や夜光虫の餌となって、また夜の海を神秘的に輝かせる。そうであって欲しいと心から願う。
 いつか、そう遠くはない未来に、私も娘に背負われてこの海に来るのだろう。そのとき私は喜んで自ら暗い海の藻屑になろう。誰を恨む事なく冷たい海底に、この身を沈めよう。そしてたくさんの夜光虫に囲まれて、夜空の星に負けないくらいの光を 放とう。
 いつかまた、そのときまで。

 風は止み、海は凪いでいる。水面で、またキラリと魚が跳ねた。月の輝く静かな静かな、夜の海だった。

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