小説

『卑怯者メロス』中杉誠志(『走れメロス』)

 メロスはあきらめた。
 濁流の川を泳ぎ切り、野盗どもを薙ぎ倒し、またしばらく走ったところで、ついにひざをついた。
 そうして、一度ひざをつくと、途端に体の重みが倍以上に増したかのように感じられ、やがて上から押しつぶされるように地面に長く伸びてしまうと、もはや起き上がることができなくなった。満身創痍であった。
 日暮れまでにシラクスの町に戻るなど、到底無理だ。
 メロスはかすかに残った力で仰向けになると、天を仰ぎ、神を呪った。
 嗚呼、神よ。なぜ善良な親友と、彼を守らんとするこのメロスに、さまざまな試練を与えたもうたのか。お恨み申します。お恨み申します、神よ。
 日は、刻一刻と残酷に傾いていく。メロスは西の空を見ながら泣いた。涙が視界を滲ませ、世界のすべてが血で染まったように赤くなったのを最後に、瞼を閉じた。

 目覚めたときには、すでに日は沈んでいた。
 友は死んだ。
 メロスは、他人事のようにそう思った。
 かの暴君ディオニスは、「メロスは裏切った」と言って、セリヌンティウスを磔の刑に処したであろう。そうして、メロスの身代わりとして殺されるあの善良なる石工が死ぬ間際に、冷徹な微笑を投げかけ、こう問うたであろう。「貴様はメロスを恨むか?」セリヌンティウスは涙ひとつ見せずに答えたに違いない。「恨みません。彼は裏切り者ではない。これはなにかの間違いです」――間違いなどではない。メロスは友を裏切ったのだ。

 中天に月がかかっていた。静かな夜であった。無実の人間が処刑され、それでも世界は何事もなく続いていた。これまでも、あのシラクスの町で当たり前に行われていた残虐非道の行いが、今日もまた行われただけのことだった。何の意味もない日であった。
 メロスは、ゆっくりと体を起こした。長寝して回復し切った体は、眠る前の状態を忘れ去ったかのようにたやすく動いた。
 そのまま町へ行くか、村へ帰るか、迷ったメロスであったが、結局どちらも選ばなかった。町へ行けば恥をさらすことになる。また、友を裏切った不徳義漢が、おめおめと家へ帰れようはずもない。精神に恥辱を受けることは、肉体の痛みを受けるよりはるかにつらい。
 メロスは町でも村でもない方角へ足を向け、体を揺らして歩き出した。目指す場所などなかった。ただ、回復したことが無意味であるその肉体を動かし続けた。

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