小説

『卑怯者メロス』中杉誠志(『走れメロス』)

 どこへ行こうというのか。
 いつまで歩き続けようというのか。
 知ったことではなかった。
 どこまでも、どこまでも、歩き続けた。
 ほんの半日前まで正義に燃えていた青年の心は、すでに枯れてしまっていた。自分は神に見捨てられたのだというふてくされた根性が、急速に五臓六腑に染み渡っていった。
 そのうちに、メロスの腹が鳴った。しかし人には会えない。あえば、「あの男は裏切り者だ」と指さされる気がした。
 それでメロスは、川や池で魚を捕り、石を投げて鳥を落とし、野草や木の実を摘んで食った。いよいよ食い物がなくなったとき、ふてくされたメロスは、もうどうにでもなれと、民家の軒先に吊してあった青物を盗んで食らった。それが始まりであった。
 メロスは各地を放浪しながら、作物を盗み、家畜を盗み、ゴミを漁り、誰にも捕まらぬまま生き延びた。一度染み着いた悪辣な根性は、もはや拭い去り難き習性となってしまった。
 このようにして、人は落ち、一度落ちればどこまでも落ち続けるのだった。
 走るのをやめたメロスは、勇者でも英雄でもなく、牧人ですらない、ただの卑怯者であった。

そして、十年が過ぎた。
 ふとメロスは、十年ぶりに故郷へ帰ろうと思った。
 村では、今でも妹夫婦が平穏に暮らしているはずである。愛する妹と、その夫と、ふたりのあいだに生まれた子供の姿を、遠くからでも眺めたいという人間なみの願望が働いた。野蛮な悪徳者として厚顔無恥に生きていた男にも、一抹の情は残っていたのである。
 もはや色褪せた記憶を辿り、故郷の村に近づくと、日が暮れるのを待った。メロスの顔を覚えている者に見つかるのを避けるためである。日が沈み、辺りが薄闇に包まれてから、やっと村に立ち入った。が、そこに家はなかった。
 メロスは、彼の顔を覚えていなさそうな若者をつかまえて、そこに暮らしていたはずの妹らの行方を尋ねた。
 すると、若者は野卑な笑みを浮かべて答えた。
「メロスという男の妹とその夫は、卑怯者の肉親となじられ、蔑まれ、ついに村を出て行ったそうです。そして、乞食同然の身となり近隣の村々をさすらったあげく、野盗に襲われ死んだといいます」
 卑怯者メロスの裏切りは、シラクスのような町ならば、ああそんなこともあったと人々の記憶の隅に追いやられている小さな事件のひとつでしかないが、のどかな田舎においては十年経っても色褪せぬ歴史的大事件なのだった。
 メロスは礼をいって若者と別れた。そうしてすぐに村を離れた。

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