小説

『卑怯者メロス』中杉誠志(『走れメロス』)

 メロスには、何も言い返すことができなかった。がっくりとうなだれると、両肩の拘束が解かれた。メロスはひざをついた。そして天に祈った。
 我を罰せよ、と。
 すると、天は応えた。
「目覚めよ、勇者、あるいは卑怯者メロスよ。起きて、走るのだ」

 そこで、メロスは目覚めた。すべての悪夢から醒めたのである。現実のメロスは、まだ友の処刑を止めるために町へ向かう途中であった。川を渡ったときに濡れた衣服が乾き切っていないことから、ほんの少しの間、気を失っていただけらしい。
 体は、依然として動かない。いや、かすかに動く。指先が湿った土をひっかき、掴んだ。
 メロスは呼吸を整える。その強靭な、しかし疲れ切った肉体の隅々に、再び血を巡らせるように、少しずつ、手足の指先を動かしていった。
 動く。
 立てる。
 まだ走れる。
 メロスは己に命じた。
 立て、メロス。
 走れ、メロス。
 友のためではない。
 家族のためでもない。
 ただ己に降りかかる惨めな未来を打ち消すためにのみ、走れ。我がために。そう、我がために。
 おまえが卑怯者であるならば、不幸を怖れる卑怯者であるならば、卑怯者であるがゆえに、走れ。刑場で死ねば、少なくとも、惨めにはならぬ。
 だから、走るのだ、メロス。卑怯者メロス。
 メロスはのっそりと起き上がり、まず一歩、踏み出した。裸足の足の裏から、大地の力を感じる。否、それはメロス自身の力であった。その力を信じ、メロスは一歩また一歩と、足を踏み出していった。
 こうして、メロスは、卑怯者メロスは、友の待つシラクスの町へと、再び走り出したのである。

1 2 3 4