小説

『そらの瑕』木江恭(『王子と乞食』)

 エミは瑕を見つけたかった。可愛くて家庭にも恵まれて良い子のらに。何か一つくらい欠けているはずだと思った。そうでなくてはあまりに不公平だから。何か一つでよかった。家が散らかっているとか、冷蔵庫が冷凍食品や惣菜ばかりだとか、両親が不仲だとか。ほんの一つでよかったのに。
 ここには何の齟齬もない。ただ、幸せで穏やかで優しい家庭の影だけがある。
 あの写真を撮った帰り道、エミはらにに尋ねた。わたしの何がそんなに気に入ったの。らには恥じらいながら答えた。エミちゃんは、らにの知らないことをたくさん知っている気がするの。だからもっともっとエミちゃんを知りたいって思うの。
 そんなに知りたいなら教えてやる。その身を持って思い知ればいい。
 エミは頬を乱暴に拭ってソファで丸くなる。
 明るいままのリビングでエミは考える。今夜、怪物は帰ってくるだろうか。らにが眠るあの家に。

 エミの声が聞こえた気がして、らには布団の中でぱちりと目を開ける。
 耳を澄ましてももうエミの声は聞こえない。気のせいだったのだろうかとらには首を傾げる。水道から規則的に垂れる水滴がシンクを打つ音と、遠くで犬が吠えるのがかすかに耳に届く。それがらにには却って新鮮に思われる。らにの家は防音性に優れているので外の雑音の侵入を許さない。
 エミの家に入って、らにはまずその寒さに驚かされる。エアコンのランプが弱々しく光ってごうごうと唸りを上げているが部屋はちっとも暖まらない。らには肩をすぼめて、もこもこのマフラーをきゅっと締める。それから鼻をくんくんと鳴らして臭いを嗅ぐ。らにの家で許される香りは、消毒臭か柔軟剤か、希に両親がもらってくる香りの強い花くらいだ。けれどエミの家は玄関を開けたその瞬間から、皆が弁当を食べている時の教室のような臭いがする。
 お邪魔します、小さな声で呟いて、その芝居がかった仕草が自分でおかしくなって笑いながららには靴を脱ぐ。らにの二十二センチの靴を置いただけでもう玄関のたたきはいっぱいになってしまう。入ってすぐ左にキッチンがあり、焦げたやかんがぽつりとコンロに取り残されている。シンクの周りは図工室の金槌を触ったあとのような臭いが強く残っている。血のような臭いだ、とはらには思わない。らには血を嗅いだことがない。らににとって怪我の臭いとは消毒液と軟膏の刺激臭だ。
台所は磨硝子の引き戸で区切られている。足元の何枚かガムテープで補強されているのを見て、エミちゃんの家族は器用だなとらには感心する。引き戸の向こうは色あせた畳の部屋で、ところどころ角の欠けたちゃぶ台とぺちゃんこの座布団と壁際のテレビにほぼ占領されている。それらを押しのけるようにして布団が敷いてある。エミが用意してくれたものだ。らには嬉しくなる。布団で寝るのは小学校の修学旅行以来だ。

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