小説

『8月の部屋』日根野通(『2月の部屋』)

ツギクルバナー

 夏の名残りの湿った空気が、まとわりつくように彼の思考をまどろませる。
 机に置かれた書類の束は、一向に片付く様子をみせない。
 暦は九月も半ばに入り、木々と日差しの陰影が少しずつ薄まって、秋の気配が所どころに感じられるが、まだまだ暑さは健在だ。
 ちりりん、と窓に掛けられた風鈴が鳴る。美しい金魚の絵柄の江戸風鈴だ。騒々しい事務所の喧騒の中で、外から入ってくる風に身を揺らし素知らぬ顔で涼やかな音を奏でている。しかしもう夏は終わった。そろそろしまわないとな、と立ち上がった矢先だった。
「おい、蓼科。来客だぞ!」
 同僚の怒声に近い野太い声が彼の名を呼ぶ。
 彼は窓とは逆の方こうに振り返り、同僚の元へ向かう。
「応接に、客だそうだ。一体誰だよ、えらいべっぴんだったぞ。」
 ニヤニヤ笑う同僚の反応に彼は困った。そんなに美人の知り合いなど、心当たりはないのだが。しかも勤め先にまで来るなどとは一体何の用事なのか。
 外回りから帰ったばかりの同僚の熱い手が彼の肩をバン、と叩く。
 蓼科は一階にある応接室へ足を運ぶ。
 応接室を控え目にノックし、遠慮がちに戸を開ける。
「失礼します。」
 蓼科の声とともに、応接室のソファに座っていた誰かが静かに立ちあがった。
 窓の外から風鈴の音が聞こえる。
 そこには見たことのない女が立っていた。
 20歳を少し越えたくらいか。小柄で細身、白いワンピースに栗毛の髪が良く映える。
 「えっと、初めまして、でよろしかったでしょうか。」
 蓼科は彼女に歩み寄る。
 「はい。お仕事中に申し訳ございません。ご迷惑は重々承知でお邪魔しました。衣笠の事で、ご相談がございまして・・・・。」
 彼女はふっと伏し目がちになる。
 衣笠は蓼科の学生時代の友人である。つい先月会ったばかりだ。明るく快活な男で、のんびりとしてどこか頼りのない蓼科とは全く異なる性質を持つが不思議と仲が良い。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11