「申し遅れました。私、野原瞳子と申します。衣笠の婚約者ですの。」
「え?衣笠の?」
蓼科にとっては寝耳に水だった。先日会った時はカフェ―の女給に惚れただのなんだの、軽口を叩いていたはずだ。衣笠とは長い付き合いになる。婚約などしたのなら、話してくれてもよさそうなものだが。腑に落ちない表情を浮かべる蓼科をよそに、野原瞳子は無表情に話を続ける。
「はい。今日お邪魔したのは、その衣笠が行方知れずになってしまったからなのです。」
夕暮れ時、蓼科は瞳子の話を反芻しながら、衣笠の家に向かった。彼が失踪したのは蓼科と会った一週間後、出張に出てからだという。
衣笠のアパートの郵便受けには、数週間分の新聞が溢れかえっている。
ドアを叩くが、返事は何もない。ドアノブを回すが、鍵はかかっているようだ。
ふと視線を感じる。そう思って視線の先に目をやると、そこには一匹の猫が佇んでいた。良く見るタイプの白い猫だ。蓼科と眼が合ったその猫は一寸の間蓼科と見つめ合い、そっと背を向け歩きだした。
よくある光景。猫などどこにでもいるし、動物と眼が合うことなど普通に起こる事だ。
蓼科は新聞の詰まったポストを開けてみる。
新聞の間に一枚のはがきが紛れこんでいる。写実的な絵の描かれた絵ハガキのようだ。金魚鉢の中を泳ぐ赤い金魚。メッセージなどは何も書かれていない。差出人の所在はY県。
「繊月堂、か。」
達筆な文字で書かれた差出人。何かの店のようだ。Y県□郡○町、瞳子の話によればY県は確か衣笠が向かった出張先だ。
猫の出現はあながち偶然ではなかったのかもしれない。大きなヒントを見つけられた気がする。他に何かないかと裏と表を交互に、確認する。ふとした拍子に何かが香った。何の香りだろうか。男の蓼科には分からないがおそらくは香水になった花の香りであろうかと思われる甘い香りがほのかに香った。
差出人は女だ。
何故瞳子が、衣笠の捜索を自身がせずに自分に依頼したのか、少し読めた気がする。混沌としていたモヤが少しずつ形を見せつつあるようなそんな感じがした。
とにかくこの「繊月堂」を訪ねてみる他なさそうだ。蓼科はそう、思った。