小説

『カンダタの憂鬱』poetaq(『蜘蛛の糸』芥川龍之介)

「あああああっ!」
 大声を上げてカンダタが跳ね起きました。そうして尻に手を当て、辺りを見回しますが、夜明けの雲上に人影は見当たりません。池が朝日を受けて薄紅にきらめいているだけです。
「な、なんだ。夢じゃねぇか」
 カンダタは安堵の吐息を漏らしました。地獄が日常だっただけに、平和な現在がすぐには受け入れ難いようなのです。カンダタは不快感がまだ息づいている尻を撫でつつ、なおも周囲を不審げに睨(ね)め回しました。
「ちっ。俺も臆病になったもんだ」
 カンダタは苦笑を浮かべました。そして苛立たしげに唾を吐くと、池の水をすくって顔を洗いました。ちっ。地獄に堕ちて数百年(数千年?)、親の顔なぞとっくに忘れてらぁ……。
ふと水面に目を落とすと、頬骨が張り目が落ち窪んだ髭面が映っています。地獄だと「いかにも罪人」なのが、極楽だと「阿羅漢」に見えるのが不思議です。カンダタはなんだかくすぐったそうに笑いだしました。
「ふふふふぁははははは……」
 笑いが止まらなくなりました。こんなに呵々大笑したのは何百年振りでしょう(イチローの年俸頂戴した夜は、札束シャワーではしゃいだもんだった!)。腹筋が痛むのも愉快で、もはや拷問とは無縁のカンダタはタガが外れたように笑い転げるのでした。
「はは腹、痛てぇ……」
 カンダタの目尻が濡れていました。それは昨日までとは打って変わった、安堵と会心の涙でした。カンダタは大の字になると、青空に向かって叫びました。
「ザマみろぉぉ!」
 爽快でした。カンダタは空はこうして澄んでいるべき、と痛切に思いました。地獄では四六時中赤黒く陰気に煙っていたからです。それは流血と火葬の色でした。もうそんな世界に戻りたくはありません……。
「ええい、畜生!」
 カンダタは気を取り直すように叫びつつ起きました。空など眺めていると、つい感傷に浸ってしまう。柄でもない。カンダタは伸びをすると、雲上を散策することにしました。
 陽光は柔らかで、桜の季節のようでした。ただ、辺りに木一本なく鳥の声すら聞こえないのが物寂しいですが、地獄を思えば「静寂」などなんのことはありません。カンダタは腰を捻ったり、ダチョウを真似たりで独りおどけて歩きました。そうでもしていないと、今度は「退屈」という名の獄卒に責められそうでならないからでした。

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