小説

『エレベーター』木江恭(『銀河鉄道の夜』)

 身体がびっしょりと濡れている――気持ちが悪い。
 音川はエレベーターの床に荷物を放り出すと、硬いポロシャツでごしごしと身体を拭った。青と白のストライプ柄の制服は悲しいほどダサくて嫌になるが、汗が染みたところで大して目立たないのが今はありがたい。
 ブーブー、と胸ポケットでスマートフォンが震え出した。どうせ社長に違いないし何を言われるのかもわかりきっているが、無視できないのが雇われ人の悲しい宿命だ。音川は溜め息を一つ吐いて、スマートフォンを耳に当てる。
「はい、音川」
「てめえ何処をちんたらほっつき歩いてんじゃ!十三時までに戻れって言うただろうが!」
「すみません、道が混んでいて」
「言い訳すんなボケが!とにかく早う戻れ!次がつかえとんのじゃ!」
「すみません」
「ほんま使えん奴じゃの、クビにされたいか!てめえみたいなのがよそで雇ってもらえると思うなこんのクズ!」
「すみません」
「うるせえわ!」
 ブツンと唐突に電話が切れて、音川はやれやれと肩を落とした。
 音川の勤める零細配送会社は、はっきり言って破産寸前だった。加熱する低価格競争を生き残るために人件費を削り、少ない社員に大量の仕事が押し寄せる。耐え切れずに誰かが辞めたところで、社長はクビにする手間が省けたと嘯くばかりで人員を補充しようとしない。結果、残りの社員にさらに負荷が掛かるという悪循環が続く。
音川自身、この三日間は家に帰れず、会社のパイプベッドで短い仮眠を取ってしのいでいる。新卒で入社してから数年、もうずっとこんな生活が続いていた。
 世の中は何処までも不公平だ。例えばこのエレベーターはいかにも高級マンションのそれらしく、広々として大人十人は余裕で入れるだろう。白っぽい色調で統一された内装には高級感があり、奥の壁はシースルーになっていて景色を一望できる。こういう家に住む人間は、重くてかさばる荷物を電話一本で誰かに玄関先まで運んでもらうことができる。一方その誰かは、汗と垢にまみれて駆けずり回り、トラックの駐禁を取られれば自腹で罰金を払い、上司の機嫌一つで延々と怒鳴られて土下座し日銭を稼ぐ。
 もう一度溜め息を吐きながら、音川は無料のメッセージ交換アプリをチェックした。先週知り合った女性たちからの返信は、今日もない。三ヶ月ぶりの合コンだったから、無理やり仕事を片付け気合十分で参戦したというのに。
「クソッタレ」

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