小説

『注射を打つなら恋のように』入江巽(『細雪』谷崎潤一郎)

 午後三時の約束、二分遅れ、来よった。
 りつおのアホ。こういうのは時間通りにせんとあかん。待つことになると、寒くて長いこの廊下、あたし行ったり来たりせなあかんので、目立ってしまう。こんな手持ち無沙汰から、誰かに秘密、ほんまにばれていくかもしれない。
あと二歩。
 きのうラインで示し合せた通り、作業服姿のりつお、なんも言わず小さく畳んだ紙、すれ違いざま、気配殺してよこしてきた。あたしそれ、りつおの言葉っぽく言うと「引くときみたいに」、目をあわせず受け取った。すべて、素知らぬ顔。
 こんなふうに紙のメモをやりとりする必要、ほんまはない。誰もがスパイやからそういうつもりで用心です言われたら、確かにそれは一理あって、ほんまはずっとラインだけでやりとりした方がいい。
 けれどあたしたち、こうしてしばらく前から密売人ごっこしとる。

 こつこつこつ、あいつはもちろんヒールやないので、この音、あたしの黒いトリーバーチ、りつおのドクターマーチン、靴の甲、革で隠された鉄板がところどころ見えるまで履きこんだチェリーレッドのエイトホール、とすとすとす。
 背中が聞いている互いの足音、なんぼか遠なったころ、大学の共通教育棟一階のどんつき左に曲がり、すぐんとこあるトイレ、すこしだけ早足で入って、奥の個室の鍵しめた。したかったわけでもないんやけどついでやしと思い、そのへんで買った灰色ヘリンボーンの膝丈スカート、デニールかなり低いタイツ、高かったシャンタル・トーマスの空色タンガ、みんなモゾモゾずらしてすわると、便座、ふわっとあったかい。
 このあたたかさ、やさしいから好きや思いながら、おしっこ出はじめるより早く、りつおのくれたメモ、急いで開く。りつお、いろいろ丸出しのこんな格好で読んでごめんね。でもひとりで読みたいし、はやく読みたいから、ここで読むのもしかたないの。白いB6のコピー用紙、雑な折り方、女っぽい綺麗な字はブルーのインク、今日のはこう書いてあった。

かおりさん。
きのうは仕事済んでから新今宮行ってかれこれ二時間いたんですけど、引けませんでした。ついてないです最近。ワンパケでいいから引きたかったです。もう三週間も、打ってません。引けなかったから帰りました。帰りの電車で子供に話しかけられました。ナウマンゾウのウンチがどうとか言っていて、かわいかった。部屋に帰りました。たつやにもらったスカンクのジョイント吸うことにしました。少しチルしました。でもスカンクはやっぱあんま好きじゃない、ってことがわかっただけでした。ニセモノのクサです。もともとクサ自体がなにかニセモノのキマりかたです。スカンクはそれのニセモノです。寝ました。仕事の前に、部屋で、起きてすぐに、これを書いてます。朝日がきれい。アルコールとクサ、ぼくはなんとなくキメるとゆるい感じになってしまうので、本当は好きじゃない。ほんとはチルが好きじゃないみたい。緊張していたい。速い感じの脳でいたい。朝ご飯に、いまから落とし卵を、はっこつくります。

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