重厚な木の扉を抜けると、線香が強く香った。
嫌な記憶を呼び起こす匂いだ。清子は鼻の頭に皺を寄せる。場所や状況は違えど繰り返し立ち会ってきた、悲しい別れの匂い。
一つ鼻を鳴らしてそれを振り払うと、清子は本堂の中を見渡した。
内部は、想像よりもずっと明るかった。天井からぶら下がった大きな電灯が、正面に据え付けられた金の本尊を照らし出している。僧形の青年が厳かな表情で周りを丁寧に掃き清め、外国人らしい数人の観光客がその姿を珍しそうに眺めていた。
四百年以上も昔に創建され、現在の建物も八十年以上の歴史を誇る由緒ある寺院にふさわしい光景。その一方で、コツコツと靴音を響かせる硬い床や、本尊に向かってずらりと並んだ据え付けの椅子はおよそ寺らしくない。よく似ているのに何かが違う、そんな違和感を感じながら、清子は腕時計に目を遣った。
十二時十分。有美はうまくやっているだろうか。
夫の昭仁は数年前から認知症が悪化し、常に誰かが側にいてやらなければならなかった。一人娘の有美はとうに嫁に行って家を出ていたから、それはずっと清子の役目だった。だから、今日のように一人で外出するのは、本当に久しぶりのことだ。
有美は心配いらないと言っていたが、この頃の明仁は昼でも夜でも家中を彷徨い歩き、清子を探して大声を上げる。意識がはっきりしていない癖に、いやだからこそ、張り上げる声の大きさや振り回す腕の力は容赦がない。不慣れな有美の手には余るだろう。
やはり、帰るべきだろうか。清子は杖を握り直す。
「コンサートにいらしたのですか?」
突然後ろからかけられた声に、清子は驚いて杖を取り落とした。カァン、と鋭い音が本堂に響き渡る。
「ああ、すみません!驚かせるつもりじゃなかったんですけど」
振り向いた先で、蛍光緑のジャンパーを羽織った青年が慌てて跪き、申し訳なさそうな顔で杖を差し出した。ジャンパーの肩口に、寺の名前が印刷されている。