小説

『猫の記憶』柿沼雅美(『黒猫』)

 両開きのクローゼットの隙間からうっすらと部屋の明かりが見える。前脚で目のまわりをこすり、舐めて、目の前の隙間に顔を近づけてみる。麻美が泣いている。すすり泣く声で分かってはいたけれど、飼い主がレモンイエローのソファの上で膝を抱えて泣いている時はどうすればいいのか、ルルは考えてみる。 
 考えながら、すぐ隣にあるマトリョーシカを背の順に並べたようなぬいぐるみたちを見る。人間にとってはただのぬいぐるみなのだろうけれど、ルルからしたら同じくらいの大きさの動物の死体が重なっているようにしか見えない。でも、ぬいぐるみに込められた麻美の気持ちをルルは覚えている。だから、ふわふわとして気持ちがいい。
 クローゼットの中に入って閉じ込められてしまった時は、麻美に気づかれないようにぬいぐるみを何度も噛み噛みした。ルルはぬいぐるみを噛み噛みしながらニャーニャーと麻美を呼んだ。
 麻美はまだ泣いている。

 2010年1月、佐藤先生に再会した。
 渋谷の駅のホームで、すぐに佐藤先生だと分かった。麻美が高校3年生の時に33歳だったから今は43歳か、と頭の中で計算しながら見つめた。
 麻美が隣の列に並び、左の佐藤先生を見上げると、佐藤先生は数分してやっと視線を麻美に合わせた。少しの間が空いて、おお! だか、あぁ! だか分からない声を出して驚かれた。そばに並んでいる人たち全員がびっくりしていて、麻美はちょっと笑った。
 久しぶりだね、何してるの、何年ぶり? と言い合いながら麻美はさりげなく列から外れて、立ち食い蕎麦屋と自動販売機の間に佐藤先生と移動した。10年ぶりに掴んだ佐藤先生の腕は、コートの上からでも懐かしかった。
 これがホームじゃなくて改札を入る前だったらよかったのに、と思った。スクランブル交差点のすぐそばのカフェに入って、10年分の話がゆっくりできたかもしれなかった。
 カフェと併設されたCDショップに飾ってある特大年賀状に好きなアイドルグループの直筆メッセージが飾ってあって、今このグループ結構好きなんだよね、高校生の時にはアイドルなんて興味なかったのに大人になったらいいなぁと思ったりするの不思議、と佐藤先生に笑いながら言ってみたかった。
 佐藤先生は、垂れて来たマフラーを直しながら、今何してるの? と聞いてくれた。よく見るとチェック柄のネクタイがオシャレで、麻美が生徒の頃よりもかっこよく見えた。

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