小説

『ふくらはぎ長者』薪野マキノ(『わらしべ長者』)

「ではこの車を差し上げましょう。さっきもらったばかりなんですが、ぼくは図書館へ行きたいだけで、バスに乗れたら十分なのです。それに、図書館には駐車場がないかもしれないし」
 男は呆然として鍵を見ていたが、はっと顔を上げ、汗まみれの額をしわくちゃにして喜んだ。
「ほんとうですか、何とお礼を申して良いやら。これで結婚式に間に合います。ほんとうにありがたい。私には何もできませんが、お礼に娘を差し上げます。泣いていますが、すぐに泣きやむでしょう。ありがとうございます、ありがとうございます」
 男は私の胸に娘を放り込み、額の蛇口を閉めて汗を止め、燕尾服を翻して車に乗り込み、颯爽と去っていった。
 ぼくは娘を抱いたまま、去っていく車を見ていた。娘の涙は止まっていた。
「あの、あなたの結婚式じゃないんですか」
「ええ、そのはずですけど、もういいんです。わたし、結婚なんかしたくなかったんです」
 娘をおろしてやると、真っ白なドレスがふわりと広がった。
「これから図書館へ行くのですか」
 娘はハンカチを取り出して、涙の跡を丁寧に拭き取った。
「ええ、そうです。駅まで戻って、バスに乗ろうかな」
「わたしも連れていってください」
「どうして」
「結婚式よりも、図書館の方が好きなの。それに、わたしはあなたのものみたいだから」
 娘はぼくの後ろにぴたりとついて来た。
 バスはすぐにやって来てすぐにぼくたちを乗せ、すぐに図書館で降ろした。後から後からひっきりなしにバスがやってきていたが、ぼくたちの乗ったバスも他のバスも満員だった。
 図書館のなかも人が多く、本ばかりかどんな人でも借りられそうだった。ぼくのおばあちゃんはもう帰ったようで、踏み切りの映像資料コーナーはすっからかんになっていた。
 ぼくは小説のコーナーに行って、大好きな小説の八十二巻目を手に取った。
 

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