小説

『海亀の憂鬱』泉谷幸子(『浦島太郎』)

――戻ると、いつも奥におられる乙姫様が入口のところで立っておられるので何事かと思いましたら、さきほどの親切な若者に恩返しとして歓待してさしあげるのでここにお連れするように、との仰せ。わたくしは一気に目が覚めたような思いになりました。さきほどの出来事をいち早く報告したのは、いつも周りをちょろちょろしている雑魚どもでございましょう。乙姫様は目付け役のわたくしの動向をもらさず把握するべく、雑魚どもに偵察させているのでございます。
――しかし、これまでのように死ぬ際の者を引きずり込んで最後呑み込むのならいざ知らず、まだまだ将来のある健康で若い者を連れてくるなど、決してしてはならぬこと。わずかな時間であっても、帰るころには陸では半年、一年とたっていることは乙姫様もご存じのはず。ですからこの命は、きっぱりお断りするべきでございました。
 しかし、恥ずかしながらわたくし自身も、あの美しい若者にもう一度会いたいという思いがございました。あの優しい瞳で見つめられて、あの穏やかな声で話しかけられたい、という思いがどうしても抑えられなかったのでございます。そして、即、陸に戻り若者をお連れするよう、時間がたつと何かとご迷惑であろう、との乙姫様のお言葉に、わたくしの思いを見透かされたような気がして、つい慌てて陸に向かってしまったのでございました。
――陸に着くと、そこにはまだその若者がおりました。お聞きすると、陸ではすでに丸一日たっており、翌日の早朝だとのこと。ちょうどよいと思い、昨日の御礼として竜宮城へご招待する旨の話をいたしました。海の中に入って大丈夫なのかと若者は心配しましたが、姫様がお待ちでございますと申しましたら、かすかに目を輝かせて素直にわたくしの甲羅にまたがるではありませんか。断られたらどれだけほっとしたか、そしてがっかりしたことでしょうか。しかし、とにかくご忠告だけはしておかねばと思い、こう申しました。
 楽しい時は早く過ぎゆくもの。お気を付けなさいませ
――しかし、若者はうんうんとおっしゃっただけで、初めてご覧になる海の中の光景に見とれておられるようでございました。その日の海は、確かにいつも以上に美しかったのでございます。波が穏やかで水が蒼く澄んでおり、海藻たちが緑色に透き通ってゆらゆらとゆらめき、魚たちが鱗に光を反射させて銀色にきらめきながら縦横無尽に通り過ぎていきます。若者が声をあげることすら忘れたように珍しそうにしておられるのを背中で感じるだけで、わたくしは幸せでございました。
 ほどなくして竜宮城に着くと、やはり乙姫様が入口に立っておられました。これまで連れてこられた若者たちとは格段に違う優れたお顔立ちに、乙姫様も一瞬にして心を奪われたご様子。そして若者も、華やかに化粧を直された乙姫様の美しさに、たちまちにして惹かれておられるご様子でございました。

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