小説

『忘れな草の物語』新生実(『忘れな草の語源にまつわる伝説』)

 ゴボゴボと水の渦巻く音がする。
「タナ、聞こえる。母さんよ……返事をして……お願い……」
 ――母さんが僕を呼んでいる――
「聞こえてるよ、母さん」
「タナ……良かった。良かったわ」
 母さんの涙が僕の頬に落ちた。
 ――なぜ母さんは泣いてるんだろう――
「母さん、どうしたの」
「川に落ちたの……覚えてない? ルリが川に入ってあなたを助けてくれたのよ」
「ルリ? ルリって誰」
「覚えていないの……」

   *

 庭のベンチで暖かな日の光をあびながらウトウトしていると、木戸がキイイと音を立てて開き、誰かが走り込んで来た。軽やかな足音は庭を駆け抜け、花壇を回り、僕の前でピタリと止まった。眩しさをこらえながら目を開くと、目の前に見知らぬ女の子が立っていた。
 ――誰――
 心地良い時間を邪魔された僕は、上目づかいにその子を睨みつけた。睨まれたその子は嫌な思いをしたろうが、睨まれて当然だ。
「誰、キミ」
 その子は僕の不機嫌なようすなど気にもせず、頬をちょっと膨らませて怒ったふりをした。
「もう……また忘れちゃったの。ルリよ。今日はシロツメクサを摘みにゆく約束でしょ」
 まるで仲の良い友達を誘いに来たような無邪気さは、腹を立てていたことを忘れるほど僕を驚かせた。そしてその子は「さあ早く」と両手で僕の手を引いてベンチから立たせ、庭の外へ連れ出そうとする。
「今日はどこに行くの」と、母さんの声がした。でも母さんは僕ではなく、女の子に向かって尋ねている。
「シロツメクサを摘みに丘へゆくの」
「あんまり遠くへ行っては駄目よ」
「大丈夫、タナのお母さん。私が一緒だから」
「お願いね、ルリ」
 なぜか母さんは、ルリと名乗る子に僕が連れて行かれるのを止めてくれなかった。それどころか、ルリが一緒だから大丈夫だなんて思っている。母さんに見離された僕は、見知らぬ女の子に連れられて丘へ行くことになってしまった。

 ルリは唖然とする僕の手を引いて歩きだした。僕が手を振りほどこうとすると、ルリはいっそう手に力を入れて握り離さない。女の子と手を繋いでいるだなんて、誰かに見らでもしたらどんなに恥ずかしい思いをするか考えたくもない。
 「ちょっと待てよ」
 急ぎ足で歩くルリは、僕を急かすばかりで話しを聞こうともしない。嫌でも丘へ連れて行くつもりだ。ようやく頂上にたどり着いたときにはすっかり息が上がって、僕は膝に手を突いて喘いでいた。
 ――なんて強引な子なんだ――
「ほら見て、あそこ……あれがシロツメクサよ」
 ルリの声に顔を上げ、指さす先に目をやると、白い小さな花が丘を覆うように咲いていた。白い花と緑の葉の上に僅に残った朝露が、登って間もない日の光を受け、光の粒となって輝いていた。しかしその光は見る間に僕達の前から消えていった。ルリがなぜ僕を引きずってまでここにやって来たのかやっとわかった。
「来て、首飾りの作り方を教えてあげる」
 ルリはまだ湿った花の中へ駆け込むと、白いワンピースの裾をフワリと広げ、シロツメクサの中に埋もれるように座った。
 ――まるで白い花だ――
「こうして茎を束ねてゆくと、だんだん長くなるでしょ」
 始めは女の子の遊びだとバカにしていた僕が、気づくと無心にシロツメクサを編んでいた。
「最後にこうして繋ぐと、ほらできた」
 ルリは唇をキュッと結ぶと両手を伸ばし、得意げに首飾りを日にかざした。そして「これ、タナにあげる」と惜しむことなく僕の首に掛けてくれた。首に触れた花びらがくすぐったかった。僕は自分の作った首飾りをどうしていいかわからず、ついルリに掛けてしまった。
 ――僕はなんてことをしてるんだ――
「ありがとう、タナ」僕を見るルリの目は、とても眩しい物を見るようだった。

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