小説

『HANA』結城紫雄(『鼻』 芥川龍之介)

 TV画面に「予約曲/歌手名/ブリーフ・アンド・トランクス」と表示されたのを確認して、空のグラスを手に立ち上がる。私はいつも絶妙のタイミングでコーラを飲み干す。まさに職人技。匠のストロー捌き。
「ドリンクバー行ってくるけど」
「ハナ、私メロンソーダ飲みたい」
 オッケー、とキョウコに返事をしながらドアを足で押し開ける。涼しい風がカーデガン越しに心地よい。雑居ビル内の澱んだ空気が新鮮に感じるほど、私の呼吸器はこの三時間、体臭と香水とフリスクと各種デオドランド・スプレーとマルボロ・メンソール・ライトとその他諸々出所不明の臭いで侵され続けそろそろ限界だ。盛りがついた女子高生四人入りのカラオケボックスは、流石に暑くて苦しくて臭くて酸っぱい。ひょっとして誰か発酵しかけているのかしら(だとしたら間違いなくリツだ)、とぼんやり考えていたら、シュールストレミング、ブロッケンジュニア、くさや、そんな単語が次々と頭に浮かんでは消えた。

 部屋に戻ると、案の定あの曲が大音量で流れていた。丁度後半のサビである。このメンバーでカラオケに行くと、ラストはこの曲でシメるという暗黙のルールがいつの間にか出来ているのが迷惑千万だが、もちろんそんなことはおくびにも出さない。今日も歌ってやろうじゃんか、ドリンクついでにフロントで借りたタンバリンを握りしめる。
 ヒカリが「もう、ハナ遅いよ曲終わっちゃうよー」と愚痴っている隣で、「ハナがタンバリン持ってきてるー、超やべー」と笑い転げているキョウコの付けまつ毛がどんどんズレていって今はあんたの顔の方が超やべーよ、と思ったけど教えてやらないことに決めて、深呼吸ひとつ。さあ、ブリーフ・アンド・トランクスで『ペチャパイ』どうぞ!
 リツ、キョウコ、ヒカリが三人で「ぺーちゃぱい!」と唱和した後に、私にマイクを渡してくるので、大声で歌い返す。咆哮する。「ぺーちゃぱい!」「仰向け苦しくない!」「ぺーちゃぱい!」「肩が凝らない!」
一同「ぺーちゃぱい!」
私「お風呂あふれない! カバン食い込まない! ノーブラでもバレなーい!」
一同「(せーの)ハナの胸はー」
私「トリプルA!」ねえ。そんなの原曲にねえよ。
 む、虚しい。ハナのは虚しい乳と書いて「きょにゅう」だね、なんてアンタはウマいこと言うよ、リツ。

 リツ曰く、私の胸といえば、この学校で知らない者はない。歩く関東平野、JKプレートテクトニクス、ぺったんこカン・カン、異名をあげればキリがない。目線を下にうつせば、腹の膨らみから爪先に至るまで全て視界に入る。ヒカリは次元が違うから諦めろという。彼女が言う次元とはレベルという意味ではなく、三次元か二次元かの違いなのだそうだ。
 かつて私は、大人になれば勝手に大きくなるもの、それが乳房というものであると思っていた。幼児特有の実に安易な発想である。身長が百六十少しで止まり、お赤飯をいただき、厄介な無駄毛が生えてきたところで、私の第二次性徴はあっけなく終焉を迎えた。これが有名進学高校だったら、「未履修科目があるのに卒業させるとは何事か」と大問題になるのは間違いない。
 物心ついたときから形態が変わらない我が胸のせいで、「ブラジャー」といえばナイキとかエレッセとか、とにかくスポーツ・ブランドのロゴが入っているものだと思っていた。それがいわゆる「スポーツブラ」と呼ばれるブラ界のマイノリティーにしてカースト底辺であることを知ったのは高校入学してからで、入学直後の体育の授業前、三本アディダスラインのブラを見たリツたちが呼吸困難になるほど爆笑した、という小さな事件がおこり、私は普通の下着へとシフトするタイミングを失ってしまう。幸か不幸か、高校生活における私の「貧乳いじられキャラ」もここで完全に定着しまったのである。ゆえにハナの貧乳といえば、この女子高で知らない者はない。
 もちろん、胸の大きさは気になる。しかし私が一番怖れているのは、胸自体のことよりも、自分が胸にコンプレックスを抱いているという事実を他人に悟られることだ。話の中で「胸」「バスト」「カップ」「乳」「おっぱい」「π」という単語がでてくる度に私の鼓動は高まる。口の端がひきつってやしないか、伏せ目がちになってやしないか。そして適度に相槌を打ち、なおかつ話の中心からは距離を置き(特にどこのメーカーのブラがいいか、とかの話題は非常に困る)、さりげなく話題の方向転換を計らねばならない。我ながら狡猾かつ滑稽なまでの必死さである。

1 2 3 4 5 6