「どうしたの? お仕事で何かあった?」
「いや、俺のことじゃ、ない」
あたしから眼をそらした夫は、彫刻のように動かなくなった。拳がぎゅっと握られ、耐えるように震えている。そのうち、あきらめたように太い息を吐いて、重々しく口を開いた。
「おまえは十二指腸潰瘍じゃない。胃癌だそうだ……末期の」
窓の外の桜は、散り終わろうとしていた。風に舞う花びらが、黒い雪に見えた。
闘病生活、というのは字面は勇ましいが退屈なものだ。あたしにできることは検査を受けて、点滴をうって、ベッドで横になっていることだけだ。
夫は休職して、いつもそばにいてくれるようになった。それはつまり、残された時間の長さを意味しているのだろう。
「手、にぎって」
全身に鳥肌が立ったあたしは、急いで右手を布団から出す。両手が優しく包み込まれる。結婚する前から、こんな握り方をされたことはなかった。それがまた、切ない。
開け放った窓から、桜の若葉がさわさわと囁く音が流れこんでくる。
ささやかな音楽に、扉を叩く音が割りこむ。ドアが小さく開き、慎重に確かめるように、短髪の若者が入ってきた。
「師匠……この前はお祝いありがとうございました。美奈さん、調子はどうですか?」
つい先日フリーになった、夫の後輩の直也君だった。どんな顔をしたらいいのか判らないというふうで、入り口でもじもじとしている。子供のいないあたしたちの、息子というには大きすぎるけれど、弟みたいなものだった。
「おう直也、来てくれたのか。例の、今週号だったか?」
「はい、独立してからの初仕事で、グラビアやらせてもらいました」
努めて明るい声を出そうとする夫に、直也君は安堵の表情を浮かべ、恥ずかしそうに写真週刊誌を差し出した。手に取り、巻頭グラビアをぱらぱらとめくる。
「へえ、上手に撮れてるわね」
カメラマンと結婚して、少しは写真の良し悪しも判るつもりだった。
「そんな、師匠に比べたらまだまだですよ」
「当たり前だ」
まじめな答えに、吹き出してしまう。ちょっとからかいたくなる。
「今度、写真撮ってほしいな。水着でもいい? 熟女だけど」