小説

『心霊写真、以前』原田修明
(inspired by 小説『もらい泣き』)

 あたしを握る手がしっとりと濡れてきて、弱々しく震えていた。

 たぶん、真夏だった。あたしはもう、ベッドから降りることができなくなっていた。空調が効いた病室で、うつらうつらとしている。カーテン越しの強い明るさで、なんとか今の季節を推測できる。
 半ば眠っていても、右手から心地よい温みが伝わってくる。夫はいつも、手を握ってくれていた。まどろみのようにぼんやりとした意識と感覚の中で、あたしをここに繋ぎとめる、たったひとつのものだった。
「ねえ」
 ため息のような声しか出ない。
「なんだい」
 こんなに近くにいるのに、いつもの顔は霧の向こうにある。声だけが、優しい。
 何を言おうとしたか、忘れてしまう。思い出そうとしても、思考は水に落ちた砂糖のように、あえなく消えていく。
 力が消えて、心が消えて、最後に身体が消える。怖いと思うほどの精神力も残っていない。
 ただ――
 この温もりを――
 何だっただろう。
 とても簡単なこと。

 今がいつなのか判らない。
 ここがどこなのか判らない。
 あたしは何も見えない。何も聞こえない。
 右から、湯のようなものが流れこんでくる。言葉、ではない。そういうはっきりしたものではない。
 温かくて、濃くて、甘くて、苦しい。名前をつけることのできない、そんなもの。
 夫がいる。あたしはもう彼を見ることはできないけれど、あたしのそばに居てくれる。
 あたしは、どうなったら終わるのだろう。それはきっと、この感覚を失ったとき。
 眠い。
 もう眼を覚ましてはいないのに、抗いがたく意識が崩れていく。

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